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「私の記憶が確かなら――」

 

司会を務めた鹿賀丈史の、この名調子を覚えている人も多いはず。’90年代、腕自慢の料理人たちが毎週、鉄人たちと料理バトルをし、空前のグルメブームを巻き起こした『料理の鉄人』(フジテレビ系)。

 

2月11日、その放送開始25周年を記念し、都内のホテルで“同窓会”が開かれた。鉄人や挑戦者たち、そして当時の番組スタッフなど参加者は100人にのぼる。開場2時間前の午前11時、ステージ正面では、かつてのキッチンスタジアムさながら、大量の食材や食器などのディスプレー作業が始まっていた。余興で行われる料理バトルのための準備である。

 

作業の手を休めず、忙しく手を動かしていたのは、白いワイシャツに黒いエプロン姿の結城摂子さんだ。肩書はフードコーディネーター。

 

「私は料理人ではないし、スタイリストでもない。つまり、食器選びや調理、レシピの考案、盛りつけ、素材探し、調理法にいたるまで、食にまつわることを、なんでもコーディネートするのが、フードコーディネーター……なのかな?」(結城さん・以下同)

 

テレビ界のフードコーディネーターの草分けとして、結城さんは『料理の鉄人』をはじめ、『SMAP×SMAP』の人気コーナー「ビストロ スマップ」も担当。また『王様のレストラン』『ザ・シェフ』『ソムリエ』『味いちもんめ』などのテレビドラマにも参加し、多いときには9本ものレギュラー番組を抱えて奔走。最近では、映画『ラストレシピ~麒麟の舌の記憶~』(主演・二宮和也)で、オリジナル料理の作成や監修に携わっている。裏方ゆえ、一般には知られていないが、業界では知る人ぞ知る、この道のカリスマ的存在なのだ。

 

結城さんが『料理の鉄人』の舞台裏を振り返る。

 

’93年スタートの『料理の鉄人』の仕事が舞い込んだのは、テレビ業界に関わって5年のこと。きっかけをくれたのは、『料理の鉄人』で解説を務めていた服部学園理事長・服部栄養専門学校校長の服部幸應さん(72)だった。

 

それにしても『料理の鉄人」の現場は、結城さんの想像以上にすさまじかった。収録は1回に4本撮りのこともあり、食材や食器の調達で目の回る忙しさだ。

 

「市場から4回分の食材が届いたときは壮観です。野菜だけでも150種類。積み上げられた段ボール箱を見て、スタッフはぼうぜんとなります」

 

現場勝負ゆえのトラブルも続出。なかでも中華料理の調味料、豆鼓(トウチ)を巡る一件である。

 

「周富徳さんが挑戦者のときでした。本番は朝9時から。豆鼓は、大豆を発酵させた黒い豆なのですが、前夜、スタッフの1人が、ネズミのふんだと思って捨ててしまったんです。そのころは入手困難な調味料で、しかも早朝。周さんは、『こんなんじゃできない』とコックコートをスタッフに投げつけて帰ろうとして」

 

大騒ぎになった。なんとか近くの中華料理店で豆鼓を分けてもらえたのだが、のちに結城さんは考えた。「豆鼓の代わりに、納豆を醤油で煮て、みそを加えてオーブンに入れるとか、そういう提案もできたのでは」と。

 

それからは、「過酷な状況でこそ最高の一品が生まれる」という信条のもと、鉄人や挑戦者への結城さんのむちゃぶりが始まった。

 

「料理人たちのポテンシャルを最大限に引き出すのも、フードコーディネーターの仕事だと思ったんです」

 

たとえば、鉄人・陳建一さんの鮎対決のときだ。

 

「鮎は、すいかの風味に似ているんです。それを思いついて、対決中にもかかわらず陳さんにすいかを放っていました。『同じ香りだから、デザートでお願い』って。私、基本はおもしろがり屋なんです」

 

奇をてらった組み合わせに、陳さんは目をむいたが、それでもおいしく仕上げたのは、さすが鉄人の実力だった。

 

当初3カ月の放送予定だった番組は人気を博し、一時代を築いていく。スタジオには結城さんの、「こうして、こうして」というリクエストの声が響き、それに対応しようとする料理人たちの臨機応変な動きがライブ感を生み、人間ドラマとなって感動を呼んだ。

 

「じつは『料理の鉄人』は、味くらべではないんですね。1時間という限られた時間で引き出されるのは、料理人としての本質。できあがった料理には、その密度の差がはっきり表れます。ほんとに格闘技のような勝負なんです」

 

結城さんが、絶体絶命のピンチに陥ったのは、’96年10月の北京ロケだった。

 

紫禁城の中の宮殿に、『料理の鉄人』の広大なセットを組んだのだが、市場から大量の食材を運ぶ段になって、番組スタッフの手配したトラックは規制により、北京市内には入れないことが判明したのである。タクシーでは、宮殿を埋め尽くすほどの食材の搬入は時間的に不可能。ディレクターも「仕方がないね」とつぶやいた。

 

市外の駅前で、結城さんは途方に暮れた。そのとき視界の端に映ったのがマイクロバスだった。見れば何台もいる。「このバスなら市内に入れる」。すぐに駆け寄って直談判。

 

「乗っていた人たちにもお金を払って降りてもらい、もうバスジャックのようでした」

 

なんとか時間ギリギリに間に合ったのである。このピンチで得た教訓はいまも生かされているという。

 

「どんな人生、局面でも、どこかにラッキーカードは1枚あるってことだと思うんです。だからね、『料理の鉄人』のおかげで私、イヤな性格になりました(笑)。あきらめの早い粋な江戸っ子だったのに、あきらめの悪い粘る性格に……」

 

『料理の鉄人』は、’99年に放送を終了。バブル全盛期のなかで、フォアグラや黒トリュフといった高級食材の普及にも貢献し、計8億円もの食材を購入したという。

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