黒澤明監督の映画「羅生門」に、次のようなシーンがあります。ある武士が殺される。その経緯を4名の登場人物が語りますが、それぞれ話の内容が違うのです。みんな嘘を言っているわけではないのですが、語る人の思い込みや自尊心などの要素から「その人にとっての真実」が構築されたのです。いっぽう聞く側にしてみれば、唯一であるはずの真実を把握することは極めて難しくなります。このように「同じ出来事なのに、人によって証言が異なること」を、心理学では「羅生門効果」と呼びます。
この羅生門効果が、いま全米を揺るがしている「白人警察官による黒人少年射殺事件」でも見られます。今年8月に米国中部ミズーリ州の小さな街ファーガソンで、丸腰の黒人少年マイケル・ブラウンさん(18)が白人の警察官ダレン・ウィルソンさんに射殺されました。約3カ月後の11月24日、同州セントルイス郡の大陪審は少年を射殺した警察官に「起訴に相当する理由がない」として不起訴とする判断を下しました。
この決定を受け、黒人住民らを中心に激しい抗議デモが起きました。デモ隊の一部は暴徒化し、スーパーや飲食店に放火し商品を略奪。これに対して重武装した警察が催涙ガスやゴム弾などを使って鎮圧に当たり、多数の負傷者や逮捕者が出ています。デモは首都ワシントン、東部のニューヨークやボストン、西部のロサンゼルスなどにも広がり、収束の糸口はまったくみえない状況です。
オバマ大統領も難しい立場に立たされています。当初はデモ隊に対する心情的な共感を示し、警察の強圧にも見える対応に批判的でした。しかし一部のデモ隊が暴徒化してからは警察当局を擁護し、暴力的行動の自粛を訴えています。
事件についての言い分は、警察側と被害者側の間で真っ向から食い違っています。警察側は「少年が武器を奪おうとしたため発砲した」などとし、正当防衛説を主張。いっぽう被害者側は「警察が銃を発砲する際に少年は両手を上げている状態であり、無抵抗だった」とする多数の目撃証言を挙げ、発砲した警察官の有罪を主張しています。ただマスコミが報じた目撃証言の多くは前述の「羅生門効果」が歴然と出ていて、証言者によって内容に矛盾が見られます。実際に現場を目撃していなかったり、人から聞いただけの証言者も判明し、事実の究明を一層難しくさせています。
この事件を巡っては、当然ながら人種問題という論点が浮上しています。事件があったファーガソンは人口2万1千人のうち約3分の2が黒人であるのに対して、警察官の95%は白人とされています。また同地域における昨年の逮捕者の9割以上が黒人で、以前から警察に対する根強い不信があったようです。ちなみに米国の独立報道機関の調査では、「黒人青少年は白人青少年に比べ、警察に射殺されるリスクが21倍も高い」という結果も出ており、合法的差別が行われているのではないかという批判もあります。
史上初の黒人大統領が誕生して6年が経った米国ですが、人種差別問題は消えることなく不満と憎しみの連鎖が続いています。キング牧師に象徴される公民権運動によって人種差別解消を規定した公民権法が制定されたのは、今からちょうど半世紀前の64年。法律の条文上で差別は解消されても、実際には依然として課題が残っているということが、再確認された気がします。
今回の事態に対して、治安当局には市民による平和的デモの権利を保障すること、そして市民には暴力に訴えない平和的な手段による意思表示をすることが求められていると思います。
ジョン・キム 吉本ばなな 「ジョンとばななの幸せって何ですか」(光文社刊・本体1,000円+税)
吉本ばなな
1964年東京生まれ。’87年『キッチン』で海燕新人文学賞を受賞しデビュー。’88年『ムーンライト・シャドウ』で泉鏡花文学賞、’89年『キッチン』『うたかた/サンクチュアリ』で芸術選奨文部大臣新人賞、同年『TUGUMI』で山本周五郎賞、’95年『アムリタ』で紫式部文学賞、’00年『不倫と南米』でドゥマゴ文学賞をそれぞれ受賞。海外でも多くの賞を受賞し、作品は30カ国以上で翻訳・出版されている。近著に『鳥たち』(集英社刊)、『ふなふな船橋』(朝日新聞出版社刊)など。