9月某日 北イタリア・パドヴァ
数日前、仕事を一休みしてPCの画面をぼんやり眺めていたら、ドイツ人とイタリア人の友人ふたりからほぼ同時に「マリ、これ読んでみなよ、日本が大変だよ!」というメールが届きました。何かと思えば、「日本のオリンピックロゴがコピーだった」とタイトルされたBBCのサイト。日本ではすでに数週間も前から話題になり続けていたこの事が、海外で広く報道されたのは今回が初めてだったようですが、要はロゴが使用されなくなったという日本での公の発表を受けての展開だったようです。
私もイタリアの美術学校の出身で、学生時代は来る日も来る日もボッティチェッリだとかファン・ダイクだとかを何枚も模写しながら過ごしてきましたし、貧乏だったあの頃は、知り合いやお金持ちから「これと同じ絵を模写してくれ」と頼まれれば、自分のオリジナルなどそっちのけで何でも描いていました。
さかのぼれば小学校時代は大好きだったスヌーピーの絵を猛練習して、大量に描いていた時代もありました。作者であるチャールズ・シュルツ氏のサインまで完璧に習得し、わら半紙をホッチキスでとめて作った自家製ノートにスヌーピーとシュルツ氏のサイン、そして製造会社のロゴと値段まで書き添え、既製品風なものを作ったりもしていました。あの頃はお小遣いが全然足りなくて、欲しくても買えないものばかりだったので、治まらないスヌーピー愛と物欲をそんな事をしながら抑えていたのでした。
コピーというものは、作家にとって一番大変な苦しみのプロセスを踏まずに生み出されたものを意味する
コピーの歴史を辿れば、それこそ古代ローマ人もギリシャ製の彫刻をそっくりそのまま真似していくつも作っていたコピーの達人たちでしたし、ダ・ビンチが描いた名画「モナリザ」の模写はこの世に幾つも存在し、その中には未だに「これこそが本物だ!」と主張を譲らないものもあります。コピーという概念はおそらく人類というものの歴史がスタートした時点から存在していて、ネアンデルタール人だって、隣の人が使っている斧の方が獲物を捕まえるのに機能的だからと、同じようなのを真似して作っていたかもしれません。人間が知恵を授かった時点でコピー欲というものはその心理に内在しているのであり、世の文明たるものも、正直「コピー」なしでは成り立っていかなかったとも言えるでしょう。
でもここではっきりさせたいのは、欲しいものが手に入らず、または複製される可能性がないから同じものを自分で作る、という意味でのコピーと、コピーでありながらも、自分のオリジナルだと主張するコピーの違いです。古代ローマのギリシャ彫刻コピーも、私のスヌーピーのコピー(比較するのもおこがましいですが)も、「ああ、あれいいなあ、ほしいなあ!」という“同じもの欲しさ”とオリジナルへのリスペクトを前提に作られた類似品でした。
となると、前述した「モナリザ」に関しては少し見方が変わってきます。500年という時間が過ぎても未だに「うちのモナリザこそ本物だ!」とオリジナル説の主張を譲らない人たちがいるのは、正直あまり穏やかな事ではありません。
漫画でも何でも、創作にとって一番大変なのは、真っ白な何もない空間に自分のイメージを鉛筆や筆の先を通じて初めて描き込む瞬間なのです。コピーというものは、作家にとって一番大変なその苦しみのプロセスを踏まずに生み出されたものを意味します。一つの作品が生まれるまでの全行程に必要な努力と、そして精神力の半分くらいは端折られて作られた物の事を言うわけです。だからそんなコピーを「自分のオリジナルだ」と主張された日には、本当の作者の中には当然許し難い気持ちがこみ上げてきてしまいます。
オリンピックに対する運営の「構え」が問われる
今回のオリンピックのロゴ騒動は、国立競技場建設案見直しの件も含め、コピー云々以前に2020年のオリンピックそのものに対する構えというか、運営のあり方についてもっともっと根深い問題を示唆するきっかけにもなったと捉えていますが、やはり考えれば考えるほど消化不良的な気持ちにさせられます。
例えそれが本当に純粋なオリジナルで生まれた案だったのだとしても、人間の脳なのだから所詮どこかで同じものを生み出してしまうという顛末もアリだとしても、ひょっとすると広い広いこの世界のどこかに、それと似たようなものが既に存在し、使用されているのかもしれないのです。
町内会のイベントではなく、オリンピックという世紀の大祭典のロゴなわけですから、世界中のありとあらゆる人々が目にします。それを慮った上での最大の注意を計った憶測と徹底的な調査は、オリジナルとして一つの案を提示する制作者サイドには必要不可欠だったのではないかとも思うわけです。
開催まであと5年。オリンピックという名称ではあっても、古代ギリシャで運動の祭典というコンセプトで発生したものとは程遠いイベントが企てられているような気持ちにさせられる今日この頃です。