7月某日 東京
テロが頻発しています。
先日はトルコ・イスタンブールのアタチュルク国際空港での約40名が死亡した自爆テロ事件、そして7月2日にはバングラディシュの首都ダッカでの襲撃事件、そして3日の夜にはイラクの首都でも多数の死者を出す連続多発テロが発生しています。
ダッカでのテロについては、日本人7名、そしてイタリア人9名を含む二十数名が犠牲者(7月4日現在)となってしまったわけですが、そのほとんどはバングラディシュという開発途上国の経済成長を助けるために派遣されていた人たちでした。日本人は交通渋滞解消のプロジェクトの為に、そしてイタリア人は繊維工場の機能の見直しや改善目的のプロジェクト・チームだったそうです。自分たちの国ではない別の場所で、その土地の為に尽力していた方たちには、あまりにふさわしくない顛末ではないでしょうか。他国の支援や協力がなければ前になかなか進めないこの国にとっても、今回の襲撃事件は強烈な痛手となるでしょう。
イスラムではラマダーンという断食期間がありますが、この2つのテロ事件はそのラマダーン期間に発生したものでした。ラマダーンの間、基本的にイスラム教徒は約1カ月間、日の出から日没まで一切の飲食を禁じられます。信仰の強い地域や人々になると禁止は飲食だけに留まらず、喫煙、性行為、投薬(病気の人を除く)なども禁じられ、辛うじて歯磨きと「唾を呑み込む」行為は許される、という状況になります。サウジアラビアなど国自体がイスラム法を取り入れている場所においては、イスラム教ではない外国人であってもラマダーンの時期に公共の場で喫煙をしていたら、国外退去を命じられる場合もあるそうです。
我々にとっては厳しい習わしのようにも感じられますが、イスラム教を信仰している人々にとってはごく当たり前の事であり、私がシリアやエジプトのようなイスラム圏に暮らしていたときも、人々はラマダーンの間も日常の様子を変える事なく過ごしていたのを記憶しています。それくらい、ラマダーンは彼等にとっては信仰と神へのリスペクトを重んじた、イスラム教徒として大切な習慣であるわけですが、やはりいくつかの衝撃的なテロ事件が、わざわざこの時期を狙ってのテロ行為と報道されれば、イスラムへの理解に乏しい人にとってのこの聖なる期間であるラマダーンの印象も変わってきてしまう可能性があります。
昨今は、もしかしたらISとはかかわりが無い可能性もある殺傷事件なども、敢えて脅威のプロパガンダとしてISサイドから犯行声明を出し、この組織の世界規模でのフランチャイズ的存在を誇張しているかのように捉えられる事もしばしばありますが、ISも含むイスラムの過激派組織は、もしも彼等が本当に、真意で世の人々にイスラム教という宗教のあり方を認識してもらいたいと考えているのであれば、そしてイスラム教の教理の正しさを説きたいのであれば、その成果はことごとく裏目に出ているとしか思えません。
宗教でも政治でも哲学でも芸術でも、〝影響力を与える〟には、人々を自然に納得させる説得性を持たなければならないというのに、彼等にはいつまでたってもそのような考え方は浸透していかないようです。
人間というのは、つくづく学習のできない生き物なのだろうか
現在地球上で沢山の信者を抱えるキリスト教もユダヤ教も仏教も、そしてイスラム教も、どれもISなどイスラム系過激派組織のやらかしているような、無謀なテロリズムという恐怖の圧力を使った手段で無理矢理人々のメンタルを洗脳させて拡張に現在地球上で沢山の信者を抱えるキリスト教もユダヤ教も仏教も、そしてイスラム教も、どれもISなどイスラム系過激派組織のやらかしているような、無謀なテロリズムという恐怖の圧力を使った手段で無理矢理人々のメンタルを洗脳させて拡張に成功した宗教ではありません。
数カ月前にどこかの国のドキュメンタリー番組で、ISに拉致された女性たちが奴隷として売買されているというものを見ました。その映像ではヨーロッパまで命からがら逃げて来た女性が、非情な扱いを受けたトラウマを抱えて、脱出を果たせた後も苦しみながら生きる様子が映し出されていましたが、私が衝撃だったのは、携帯の動画アプリで撮影されたらしい、IS組織の内部の人間のふだんの有様でした。
恐らく未成年とも思しき少年の面影を残した青年たちが、リラックスした雰囲気で楽しそうに笑いながら奴隷売買についての声を撮影者に向けてあげているのですが、とにかく皆若い。彼等の横柄ではあっても単純そうで屈託の無い顔つきは、アメリカでもブラジルでも、世界のどんな街にもよく居る、ちょっと世の中に対して反抗精神を抱いている挑発的な若者たちのグループと何ら代わりがない雰囲気なのです。果たして彼等のうちの何人ぐらいがイスラム教についてを把握しているのか、イスラムの教典であるコーランをしっかりと読んだ事があるのか、それすら怪しい程、表情や態度や言葉が幼い。軽い。
この青年たちは、要は自由な恋愛や結婚が許されないストレスを抱え(イスラム法では結婚をする場合、通常であれば男性はマハルという持参金を相手に捧げなければなりません)、社会にはびこる貧困の格差を恨み、そういった不満や怒りのはけ口として世界を震撼させている組織に入る事で自己顕示欲を強め、溜まった鬱憤を晴らしたかったのでしょう。
我々が大きな衝撃と悲しみを感じている一連のテロ攻撃を、もしかすると彼等は、ゲームみたいなものくらいにしか捉えていないのではないかという憶測に、収拾の付かない恐怖と憤りを感じました。「神は偉大なり」という尊厳な言葉を口にするに至るだけの教養が、彼等の身に付いているとはとてもその様子からは思えなかったのです。
今回のダッカのテロも犯人たちは皆20代の富裕層の青年だったと言われています。ISが公表したとされる彼等の写真は、全員が皆笑顔で武器を構えた姿でした。恐らく彼等は大学などで学び、それなりの教養もあったかもしれません。それでもあの自信に満ちた笑顔を見ていると、若さというエネルギーも、注ぎどころによってはこの世で最も凶暴なものになってしまうのです。
私はジャーナリストでもありませんし、中東政治や宗教学のエキスパートでもありません。シリアには暮らした事はあっても、あくまで素人の見解で感じる事しか文章にはできませんが、それでも、こういう事件が起こる度に胸中に飽和する、人類の普遍的な精神性の進展の無さには心底からがっかりしてしまうのです。
古代ローマの歴史は1千年保たれました。そしてその1千年の間には、人間という精神性をもった生き物が、地球上に生きている限り起こし得るであろう、ほとんどの事象が詰め込まれています。その1千年を辿っていくと、だいたい現代の世の中で起っているのと似たような事は、既にどこかで起きていたりするわけで、人間というのは、つくづく学習のできない生き物なのだなあ、と思ってしまうのです。
ローマ帝国は、結局勢力と領地を世界一広げ大国となった挙げ句に、様々なメンテナンスや統制の不具合が発生して崩壊してしまいました。だから第二次世界大戦よりも長く続いてしまっているテロリズムの蔓延という、不条理でことごとく説得力に欠けたこの悪夢も、きっといつかは終焉を迎えるでしょう。でも、その日が、一刻も早くきてくれること、そしてこの悲劇が繰り返されないことを、とにかく願って止みません。