10月某日 北イタリア・パドヴァ
今年のノーベル文学賞が発表になった時、私は近所の馴染みのレストランで昼食を摂っている最中でした。突然、奥の部屋にいたオーナーのオヤジから「テレビで日本の作家が文学賞を取ったって言ってたよ」という報告を受け、私はそれを村上春樹さんのことだと信じて疑いませんでした。何度も候補になってきたけど、とうとう受賞されたのだなあ、日本では大騒ぎだろうなあ、などという思いを巡らせながら家に帰ってPCを開き、そこで初めて受賞者が村上春樹さんではなかったことを知ったのです。しかも、オーナーが言っていたように、日本国籍でもない。英国の報道では、イシグロさんを自分たちの国の作家、The British author(英国人作家)として今回の受賞を報道しています。
イシグロさんはご両親が日本人で、しかも5歳までは日本で育っていますし、日系人とはいってもかつては日本国籍を持っていた人です。日本のメディアが“日本出身”でノーベル文学賞に選ばれた作家は今回で3人目、と報道しているのをネットで見て、“出身”という意味では全く間違ってはいないけど、このイシグロさんと日本との繋がりについての、メディアの必要以上のこだわり方がどうも気になりました。
そういえば、旦那がちょうどシカゴ大学に移った2008年、この大学の物理学者である南部陽一郎さんという方がノーベル物理学賞を受賞しました。南部陽一郎さんは日本の大阪生まれですが、東大卒業後はアメリカの大学に移り、49歳の時に米国籍を得ています。ところが日本では南部さんがアメリカ国籍であっても“元日本人”であるということにこだわり、なぜ日本政府は二重国籍を許さないのか、法を改訂したらどうか、という論議にまで発展したと記憶しています。
基本的に、どこの国籍のどんな種族の人間であろうと、研究や表現の功績が認められさえすれば受賞するのが、ノーベル賞というものです。
ざっくり言えば、地球上に暮らして活躍している人間であれば誰でも対象者となるのです。にもかかわらず、南部さんはもともと日本人だったとか、二重国籍さえ許されていたら日本人のノーベル賞受賞者数が増えていたはずだったとか、まるでオリンピックのメダル獲得数(これもおかしいと思うのですが)のようなテンションで騒いでいるのが、不思議に思えてなりませんでした。
もちろん、どの国の人にとっても、自国からノーベル賞の受賞者が輩出されれば、たとえその人のことを知らなくても、その受賞理由が詳しく判らなくても、評価された作品を読んでいなくても、単純にそれは喜ばしいことです。
自分の国から名誉な人物が現れることは、国全体にとってもおめでたいことであり、国民にとっての励みになり、誇りに思う人も大勢いるでしょう。私の大好きなガルシア・マルケスという作家も、かつてノーベル文学賞を受賞したことで、彼の母国であるコロンビアの知名度や好感度、そして何よりコロンビア人の志気を高める効果をもたらしました。マルケスはコロンビアの人にとって、今もなお英雄です。
そしてノーベル賞の選考サイドも、世間の多くの人々が、選ばれた作品や功績にではなく、同郷の人という理由だけで全体主義的な喜び方をするであろうということも、本望ではないとしても、最初からわかっているのだと思います。
にしても、今回イシグロさんの受賞の報告を伝える日本のメディアの中には、イシグロさんがどんな作家でどんな作品を書いているのか、ではなく、イシグロさんの出身地が日本であるということに焦点を当てて喜んでいる報道が目立ち、正直、南部陽一郎さんの時と同様の違和感を抱きました。日本生まれの人だから嬉しい、というのはこのような賞には本来相応しくない喜びのように私には思えるのです。
作家たちはどこで生まれようと、それぞれの経験と教養によって独自の人間性と知性を築き、作品を生み出す
私が学生時代から敬愛している作家にエリアス・カネッティという人がいます。この人も1981年のノーベル文学賞受賞者ですが、カネッティはブルガリア生まれのスペイン系ユダヤ人で、後にウィーンに留学し、作品はドイツ語で執筆していました。文学のジャンルとしてはドイツ文学になりますが、大戦中にイギリスに亡命しているので国籍は英国人で、最後はスイスで亡くなっています。
実はこのカネッティの受賞時にも、ブルガリアのメディアが「カネッティさんは6歳までブルガリアで育ったので、今回の受賞はブルガリアにとっても快挙だ」という記事を出して、物議を醸しました。文学界においては、カネッティは“ドイツ語で作品を執筆する、ドイツ文学の作家”というカテゴリーですし、ドイツ文学界における大家と言っていいでしょう。でも、ノーベル賞の受賞者リストには、出身国でもなければ英語で書いているわけでもないのに、英国人として登録されているのです。
文学者の中にはカネッティのような人が、他にもまだどっさりいます。ギリシャ生まれでイギリスと日本の国籍を取得していた小泉八雲もそういう立ち位置の人だったと言えるでしょう。
ヘミングウェイも、マルケスも、川端康成もイシグロ氏も、作家たちはどこで生まれてどこの国に暮らして何語で執筆していようと、彼らはそれぞれの経験と教養によって独自の人間性と知性を築き、属性のない、自分たちにしか持てない世界観を作品として生んでいるのです。
作家は、その人自体が個人としてのひとつの世界なのです。作家に限らず、科学分野の研究者たちも同じです。評価を受けているのは、まさにそんな彼らの中にしか存在しない、唯一無二の世界なのです。
なにはともあれ、せっかくこのようなかたちで日本の多くの人々が、カズオ・イシグロという作家の存在を知るに至ったわけですから、皆さん是非この機に彼の本を読んでみましょう。翻訳も何冊も出ています。彼の作品を知ることで、作家の国籍とか出自といったこととは関係のない、もっと大きな感動にきっと巡り会えるでしょう。