Vol.1~ 1メートルでも深く潜りたい!いのちの奇跡を感じる場所へ
「ちょっといってきます」
神奈川県真鶴半島の沖合に、小さな舟が停泊している。その脇で、首から上だけを海面に出した女性は、船上の記者にニッコリ微笑んでそう告げると、ゆっくりと深呼吸を始めた。そして、パクッパクッと、まるで空気の塊をくわえ、飲み込んでいくような動作を何度も繰り替えす。その姿は、他の惑星の生き物のように、人間離れして見えた。
平井美鈴さん(37)は、フリーダイビング競技の第一人者だ。フリーダイビングとは、映画『グランブルー』でもおなじみの、タンクなどの器材を一切使わない素潜りのこと。競技には、潜行深度や潜水距離、潜水時間を競う種目がある。
今年の夏、日本で初めて開催された世界大会『フリーダイビング世界選手権2010沖縄』で、日本女子チームは悲願の初優勝を遂げた。その日本女子チームの中心選手が、平井さんだ。
不思議な呼吸法を、平井さんは「これ以上、息を吸えないというところから、息を押し込むんです」と説明する。そのためには「肋骨と肋骨の間を広げないと、体を痛めちゃいます」と、ちょっと怖いようなことをさらっと言う。
「1リットル余計に空気を持って行けるって、すごいことなんで」
1リットル余計に空気を持って、いったいどれくらい深く、長く潜るのだろう。船の上でぼんやり考える記者を尻目に、平井さんはイルカのように無駄のない動きとスピードで、するりと海中へ。フィンが海面を強く蹴り上げたと思った直後、シルバーのウェットスーツは、あっという間に海中深く消えて行った。
平井さんが「ちょっと行ってくる」と、まるで10メートル先のコンビニに行くかのような気軽さで向かったのは、水深75メートルの海の底だ。
平井さんは、2分半ほどして、その75メートル先から帰ってきた。練習中の数字なので非公認だが、これは彼女の持つ日本記録74メートルを上回る数字。
「先週、生まれて初めて80メートルまで潜れたんですよ。70メートル台と80メートルってちょっとの差と思われるかも知れませんが、やっぱり世界が違うんです」
その世界とは――。
「真鶴の海はそれほど透明度も高くなくて光も届かないだろうから、きっと真っ暗なんだろうなと思ってたんですけど。海底が見えました。砂紋って言うんですか、海底の砂がハッキリ見えたんですよ」
日本人女性がまだ誰も肉眼で見たことがない世界。それを「ハッキリと見た」と誇らしげに話す平井さん。だが、彼女にはハッキリと見たはずなのに、どうしても思い出せない過去の光景がある。2010年3月20日の朝のことだ。