スキージャンプ競技のラージヒルで銀メダルを獲得、さらに団体戦でも日本を銅メダルに導いた葛西紀明選手(41)。7度目の五輪で悲願のメダルを手にしたが、その興奮も冷めやらぬ中で突如“結婚”というニュースが流れた。
「結婚報道に当の本人がいちばん驚いていました(なんでこんな報道になるんだって)」と話すのは、葛西選手の姉・紀子さん(44)。次回冬季五輪は韓国の平昌(ピョンチャン)で開催されるが、「それまでには結婚したいという意味で語った言葉が、すぐにでも結婚するような話になって報道されたようです」(以下・紀子さん)。
葛西選手はこれまで競技人生一筋に歩んできた。それほどジャンプにかける思いは大きかった。貧しい家計を支えるために、母親の幸子さんは、昼間は割りばし工場、夜は小料理屋で朝から晩まで働きづめだった。代わりに長女の紀子さんが家事をした。米びつが底をつくこともしばしばで、お金を借りにまわる日もあった。それでも一家は葛西選手が世界で羽ばたけるようにと応援しつづけた。
最愛の母が亡くなったのは長野五輪(’98年)の1年前。家に放火されて母親が大やけどをおい、11カ月に及ぶ治療のかいもなく帰らぬ人となった。そして病室のサイドボードから小さなノートを発見する。母親は両手もやけどし、ペンを握れるほどの握力もなかったはず。実際ノートを持つ姿は誰も見ていなかった。
はがきより少し大きいくらいのノート。葛西選手は何げなく開いたそのページに目を走らせ、表情を一変させると「今、ここで読んだら泣いてしまう。俺が預かっていてもいいか」と紀子さんに言ったという。
「やっと判読できるくらい。ミミズがはったような文字でうっすらと書かれていて。すべてを読んだわけではありませんが『紀明の試合が見たい』『世界一になれ』『頑張れ』などと書かれていました」
’94年、リレハンメル五輪の直前、札幌の大倉山競技場では小柄な幸子さんが大勢の観客の間をすり抜けて前に出て声援を送った。当然観衆のどよめきにのみこまれるが、それでも声をからして「がんばれ、紀明!」と叫んだ。“もうあの声援はできなくなる”。それを病床で悟り、思いを伝え残すために、必死でペンを握ったのだ。
’14年2月、その願いを心に深く刻み、葛西選手はソチの空に挑んだ。葛西選手の自宅の耐火金庫に保管されている、母の祈りのノート。彼はそれを何度読み返したのだろう。ソチ五輪はまだ夢の途中、カミカゼレジェンドは次の章へ進むーー。