手芸デザイナーの寺西恵里子さん(56)のお母さんは、縫い物、刺繍など手仕事はなんでもできた。洋裁の腕を見込まれ有名デザイナーの仕事もこなした。恵理子さんの子ども時代の着る服は、全部母の手作り。その様子を見て彼女は育った。
子ども時代からかわいいものが大好きだった寺西さん。「サンリオでなら自分らしい作品が作れる」と就職活動の時期を迎えた彼女は考えた。自ら電話し会社訪問。案内された会社の中には街のように家が並んでいた。キティちゃんは一戸建てで滑り台もある。社長室は壁紙、机、椅子、茶わんまですべてがいちご。「なんて楽しいところなの。絶対、ここで働きたいと思った」(寺西さん・以下同)
1週間、学校を休んで、彼女はひたすらスケッチを描く。100枚。アイデアと思いのこもったデザイン画だった。それを持って再度会社を訪問し、人事担当者に見せる。展示会には作品を持って出かけた。その「積極性」が役員の目に留まる。
1979年3月、22歳、憧れのサンリオに入社。キティちゃん誕生(’74年)から5年後だった。入社後、衣料部門を希望していたのに、ぬいぐるみの部署に配属された寺西さん。「最初は抵抗していた。ガンコで、納得するまで逆らう。でも、理解すると能力を発揮して絶対にやりぬく」と寺西さんの奮闘ぶりを知る、当時の上司・横山哲さんは述懐する。
「キティのぬいぐるみは彼女が最初に手掛けました。基本形は、ぬいぐるみ業界でいまでも通用しています。それまでのキティちゃんは平面しかなく座ったことがなかった。ぬいぐるみを立体化したのは、彼女の大きな功績の一つといっていい。座ったときの形も彼女の造形です」(横山さん)
衣料部門に移ってからは、親の要望に応え、クオリティが高く、子どもが欲しがる廉価版を出した。当時のサンリオの子ども服ブランド・シュガーランドのブランド・タグは「若いころの私の似顔絵になっているんです」という。商品開発をしながら、多くのサンリオキャラクターの実用書に関わった。
1985年、28歳で中学校の同級生・宮崎守さん(工業デザイナー)と結婚。2年後の6月、妊娠・出産を機に8年余りいたサンリオを退社する。その後もサンリオの出版の仕事を引き継ぐかたちで、キティちゃんなどサンリオキャラクターの実用書、手作り本を手掛けた。現在までの著作数は約30年間で528冊にものぼり、DIY(手作り)部門の著作数で『ギネスブック』に申請中だ。
「子ども向けのものも、実用性だけでなく夢みたいなのが絶対ないといけないと思うんです。たとえば、幼稚園バッグってお弁当を入れますよね。バッグの底の幅は絶対ないとだめなんですが、おしゃれにしようと思ったら分厚いバッグなんかダメなんですよ。それで、バッグの側面に小さな布2枚を使って、ティッシュ入れを付ける。ファスナーはマジックテープにするとか、そのひと手間で、見違えるようにかわいくなるんです」
母から受け継いだ手作りのぬくもり。さらにサンリオから学んだ物作りの心構えを胸に刻んでいる。寺西さんの手作りのよさを最も身近で感じてきた娘の映瑠(はゆる)さん(24)は言う。
「母から作ってもらったのでいちばんうれしかったのは、お稽古バッグです。トーシューズの刺繍とか、ただのバッグじゃなくてフェルトでできていて、いろんな人に、いいね、いいねと言われる。4歳ぐらいから小3、小4とかまでずっと使って、いまでも大切にとってあります」
10月中旬、寺西さんはサンリオ・辻社長に手紙を書いた。著作が528冊に達したこと、子ども向けの手作り応援サイト『こうさくランド』(「毛糸遊びいろいろ」「おふろ遊びいろいろ」「おやつランド」など)を作ることなどのあとに、こう綴った。
「社長が“かわいい”という文化を、世界に発信したように……私も手作りの文化を世界に発信したいと思います。応援してください」
辻社長からは賛成だ、大いに頑張ってほしいという励ましの言葉が届いた。そして辻社長から編集部には「寺西さんは、いい子でとても頑張り屋さんだった」とメッセージが届いた。彼女の頑張りは、糸を紡ぐように人と人をつなぎ、その輪は大きく広がるに、ちがいない。