’68年に、日本で始めての肢体不自由児のための療護施設として設立された「ねむの木学園」。学園の“おとうさん”だった、作家・吉行淳之介さんが亡くなってすでに13年がたつ。だが、90歳になった宮城まり子さんの情熱をいまも支え続けているのは、「淳ちゃんとの子供である『ねむの木』を守りたい」という、いちずな思いだった――。
「宮城先生! なんだか若返りましたね」と、思わず記者はそう口走っていた。3月21日に90歳の誕生日を迎えたばかりの宮城まり子さん。だが、記者が3年前に「ねむの木村」を訪問したときよりも、顔色も肌艶も格段によく、美しかったのだ。
「お世辞じゃないの?ありがとう。でも先生はやめて。子供たちだって、誰も先生なんて言わないわ。お母さんか、まり子さんよ」
くすぐったそうに笑みを浮かべるまり子さんの黒いタートルネックの胸元には、シルバーのチェーンに大粒の真珠をあしらったペンダントが輝いていた。
記者が「ペンダント、素敵ですね」と言うと、まり子さんは真珠のトップを慈しむように手に取った。
「淳之介さんがプレゼントしてくださったの。あの人、あんまりお金もってないのに、銀座のミキモトで特別に作ったんですって」
淳之介さんとは、もちろん芥川賞作家の故・吉行淳之介さん(1924〜1994)のこと。亡くなるその日まで35年間、まり子さんとひとつ屋根の下で暮らした彼女の最愛の人である。籍は入っていなくても、事実上の夫婦だった。
まり子さんが’68年に創設した肢体不自由児療護施設「ねむの木学園」では、子供たちの感性を育てる教育を何より重視している。絵画、ダンス、音楽、茶道、詩、作文、工芸などさまざまな学びの場を用意し、一人一人の個性や才能を引き出してきた。ことに自由な発想で描かせる絵画教育の評価は高く、国内外で毎年のように美術展を開催している。
現在、ねむの木村で暮らしている“子供たち”は74人。最年少は2歳の女の子。創立当初からここで生活している最年長の男性は68歳、女性は77歳になった。たとえ何歳になっても、まり子さんの大切な子供たちに変わりない。だって、まり子さんは彼らの“おかあさん”なのだから。ねむの木学園は4月で創立50年目を迎えた。
ねむの木学園の名付け親は吉行さんだ。設立当初、名前を絞りきれなかったまり子さんは、講演のために地方にいた吉行さんに、候補名を書き連ねて、電報を打った。夜遅く彼からの返電が届く。《ねむの木学園がいい。それに決めたまえ》。吉行さんは学園の理事も引き受けてくれた。
2人の出会いは、雑誌の鼎談の席だった。’57年、まり子さん30歳、吉行さん32歳。当時、まり子さんはNHK紅白歌合戦にも出場する人気歌手。吉行さんは2年前に『驟雨』で芥川賞を受賞し、“第三の新人”と称された新進気鋭の人気作家だった。彼と目が合った瞬間、まり子さんの背中を雷に打たれたような戦慄が走ったという。
まり子さんが、障害がある子供たちの現実を知るようになったのは、吉行さんと出会ったころと同時期だ。当時、彼女は『婦人公論』で「まり子の社会見学」という連載を持っていた。その取材で小学校の特別支援学級を訪ねたとき、知的障害がある子の教育がないがしろにされていることに疑問を抱いた。
脳性まひの少女の役を演じることになったときに見学に行った施設で、親に捨てられ、もしくは死別し、生活の場も学校教育も与えられていない障害児がいるという悲しい現実も知った。
「だったら、私がこの子たちのお家を建てよう」。そんなまり子さんの思いをいちばんに理解し、「昨日今日、言い出したらやめなさいって言うけど、ずっと思い続けていたみたいだから、いいでしょう」と、応援してくれたのが吉行さんだった。
まりこさんはアメリカの施設を視察して回り、女優業の合間に土地を探し、施設の認可を受けるべく奔走する。’68年4月、「ねむの木学園」は静岡県の浜岡砂丘に近い海辺の町に開校した。日本に福祉の概念が根付いていなかった時代から、障害児を守り、育てるために闘い続けた彼女の功績は大きい。
「90歳になったいま振り返ってみても、淳ちゃんと私はとてもいいコンビでした。ずっと結婚という形を望んでいましたけれども、かなわなければ、愛だけでいいと思い続けていました。淳ちゃんの子供、もちろん欲しかった。ただ……」
正妻や娘さん、吉行さんの母や妹たちへの遠慮もあった。
「できなかったのではなく、産まなかったのです」
ねむの木の子供たちは、吉行さんとの子供でもある。理事を引き受けた吉行さんは、子供たちの“おとうさん”なのだから。
「もし“淳ちゃんの妻”になっていたら、ねむの木学園は続けられなかったと思います。もし淳ちゃんの子供を産んでいたら、私たちのベタベタしない、兄妹みたいな、互いを思いやる関係は成り立たなかったでしょう」
海辺の町から現在の静岡県掛川市に移転したのは’97年。80ヘクタールの広大な土地を「ねむの木村」として造成し、学園や養護学校のほか、大人になっても一緒に生活できる身体障害者療護施設「ねむの木のどかな家」を設立した。
「ねむの木村では、まだまだ、したいことがいっぱいあるんです。あと5年か10年、頑張りたいな」
90歳を迎え、最近では自分のことより、子供たちの将来が何より心配になる。
「血がつながっていなくても、いっしょに仲よくしていると、一人一人が素晴らしい才能を秘めているのがわかるの。それを引き出すお手伝いをして、才能の小さな芽が出てきたのに気づくとうれしくて、ギュッと抱きしめたくなるんです」