「国民に寄り添いたい」とのお気持ちから、被災地など頻繁に遠方まで足を運んでおられる美智子さま。行く先々での慈愛あふれるお声がけに、感動の涙を流す人も多いという。それは、まさに“奇跡を起こすおことば”−−。実際に美智子さまとお会いしたことで「人生が変わった」という方の証言をご紹介。
右半身にまひが残り、左手だけの奏法を編み出したピアニストの舘野泉さん(79)。絶望のふちから、再び鍵盤に向かう自信を与えたのは、美智子さまのお言葉だった。
「両陛下と最初にお会いしたのは、’85年6月。当時は皇太子ご夫妻でしたが、国際親善のために私の住んでいるフィンランドにおいでになられたのです。在留邦人の代表として大使公邸で初めてお話しさせていただいたとき、陛下から『美智子があなたのことをよく話しています』、美智子さまからは『やっとお会いできましたね』とお言葉をいただきました」
即位後の’93年12月には、ピアニストの妹とそのバイオリニストの夫とともに、赤坂御所に招かれた。
「美智子さまが、その年の10月のお誕生日に失声症になられたことは聞いておりましたので、数曲弾く程度で早々に失礼するつもりでした。ところがシベリウスを5曲ほど演奏してお辞儀して立とうとすると、美智子さまは“まだ”という表情をなさるのです」
ピアノに向かった舘野さんが妹と連弾しようとした際に、天皇陛下が連弾用の椅子を隣の部屋からお持ちになり、紀宮さまも演奏のお手伝いをはじめられた。ご家族が美智子さまに音楽を楽しんでもらおうと、舘野さんを引き止められたようだ。
その8年後、舘野さんは脳出血が原因で、右半身がまひしてしまう。苦労の末、左手だけの奏法を始めたばかりのときだった。’04年の秋、フィンランド大使館のパーティに美智子さまが招かれたとき、舘野さんは再び、美智子さまと一緒に演奏を楽しむ機会に恵まれた。
「美智子さまが『みんなを驚かせましょう』と大使館でのピアノの連弾の提案をされたのです。吉松隆さんが書いてくれた曲で演奏した“3手連弾”。ボクの回復の具合がわからなかったからか、楽譜は美智子さまの演奏がメイン。本当はもう少し弾けたのですが……」
だが、演奏が終わったときの美智子さまのお言葉は、舘野さんに勇気を与えた。
「『吉松さん、この次のときは、私のパートを減らして、舘野さんにもっと仕事をしてもらってください』と。冗談っぽく話しておられましたが、不安だった私は、大きな自信を持つことができたのです」
舘野さんが紡ぎ出す美しい旋律には、美智子さまのやさしさが隠されていたのだ。