東日本大震災の大津波で全校児童108人のうち74人の児童が死亡・行方不明となった、宮城県石巻市立大川小学校。地震発生の午後2時46分から津波到着の3時37分までの51分間に、いったい何が起きたのか――。
自分の体験を震災直後から語り続けている子供がいる。長女の未捺(みな)ちゃん(享年9)を亡くした只野英昭さん(42)の長男、哲也くん(14)だ。あの日、津波に遭遇し奇跡的に生還した児童4人のうちの1人である。
「まずは、私が哲也から聞いてきたことを、ありのままにお伝えしたいと思います」と、只野さんは言って、“消し去られようとしている51分間”の再現が始まった。
’11年3月11日午後2時46分ごろ、「帰りの会」が行われていた小5の哲也くんの教室を強い揺れが襲った。机の下に避難しながら、哲也くんは祖父の弘さん(享年67)の口ぐせを思い出していた。「地震来たら、山さ逃げろよ」。
その後、担任とともに校庭へ避難。「下級生には、吐いている子もいて。先生たちはたまって『どうする、どうする』ってなってて」。児童たちを校庭に座らせたまま、時間は過ぎていく。「早く山に行ったほうがいいんじゃないか。先生、何やってるのかな。先生が言わなきゃ、移動できないしな」。
前後して、一部の保護者への引き渡しが始まり、このとき哲也くんの母親のしろえさん(享年41)が、いったん校庭に迎えに来ている。しかし、「忘れ物を取ってくる」と再び車で自宅に戻った。それが、元気な母の姿を見た最後となった。
「それから、50分くらいだっけ、けっこう時間がたって、『じゃあ、移動しましょう』ってなって」。河北総合支所の職員の「松原を津波が越えてきました」という声を聞いて、教師たちは山ではなく、河川堤防近くの「三角地帯」へと子供らを誘導し始めた。この、結果的に危険な避難先を選んだ理由についても、第三者検証委員会の最終報告書(今年の2月23日)に明確な記述はない。
「おい(俺)は、てっきり山に行くと思っていたけど、もう進んでいたので、『まっ、いいか』って。公民館の前あたりに来たとき教頭先生が戻ってきて、『津波が来たので、早く移動してください』と言われて、小走りで山沿いの道を、民家の間を抜けて県道へ出ようとした。そのとき、波がこぼれてくるのが見えて。家が爆発したと思って、砂煙がパーッと上って、なんだかわかんないけど、『逃げなきゃ』と思って、逆戻りしていた」
パニック状態で周囲まで気遣う余裕はなかったと、素直に打ち明ける。「波が来たときは、腰を抜かして動けない人もいたけど、自分が助かりたいというのしかなくて、走っていって。後ろのみんなは『なんで、戻ってきたんだよ』という感じで見ていたけど、ジェット機の爆音のような音のせいで、口をパクパクしているのしかわからず、でも、おいは上っていって」
「指を土に突っこんで山を上っていった。ベチャベチャな雪の斜面で、登れない人もいた。3~4メートル登って後ろを振り向いたとき、まだ波がそんなに来ていなかったから、『逃げれる』って思ってもう1回前向いたとき、いきなり後ろから押し倒されるように津波にのまれて、気絶した――」
哲也くんは土に半分ほど埋まっていたところを奇跡的に助けだされた。あえてつらいことを語り始めた心境を、哲也くんはこう説明する。
「地震のことも、ずっと『嫌だ、嫌だ』って向き合わないで伝えなかったら、千年後の人たちの教訓にならない。人生を変えるくらいのこんな思いを、おいは、これからの人にはさせたくない」
最終報告書に納得出来ない約20家族が、石巻市と宮城県を相手取り損害賠償訴訟に踏み切ることを決断。今月10日に行われた仙台地裁への提訴には、只野さんも原告として加わっている。これから行われる裁判の行方を、多くの「小さな瞳」が見つめているはず。あの日、大川小の黒板を見ていた瞳が――。