いまから30年前に発表され、美空ひばりさん(享年52)最後の曲となった秋元康作詞、見岳章作曲の『川の流れのように』。誕生の裏にひばりさんの苦悩と、最愛の息子の支えがあった――。
「『川の流れのように』を発表して、すぐに亡くなったので、おふくろはこの曲を20回も歌ってないんじゃないでしょうか。でも、30年たっても、全世代から愛していただける。本当にありがたいことです」
ファンへの感謝の気持ちを語るのは、昭和の歌姫・美空ひばりの息子で「ひばりプロダクション」社長の加藤和也さん(47)だ。
’89年1月11日にシングル『川の流れのように』を発売してから30年。ひばりさんが命を削って世に送り出した名曲の陰にあった孤独と病魔を、和也さんが、静かに述懐してくれた。
「ずっと、足の痛みを訴えていたのですが、太ももの付け根の関節部分の骨がもろく、潰れてしまう大腿骨頭壊死と診断されたのは、’87年です。肝炎の症状もあることがわかり、いずれも過度の飲酒が原因だとみられました」(和也さん・以下同)
ひばりさんは’81年、子役時代から共に“美空ひばり”を作り上げてきた、最愛の母・喜美枝さんを亡くし、’83年、’86年にも相次いで弟を失っている。
「非常に絆の強い家族が亡くなり、残ったのは16歳のボクだけ。酒量が増えたもの、仕事の重圧ばかりでなく、孤独という側面も大きかったと思います」
退院後、ひばりさんは大好きだったお酒を断ち、復帰を志した。ファンも“不死鳥”のようによみがえる美空ひばりを期待したが、息子の気持ちは“体が優先”だった。
「’88年4月に、東京ドームでの復帰公演も、親子で大げんかです。『何かあったらどうするんだ!』と中止を説得しました。それでも『私はステージの上で死ぬ覚悟がある。美空ひばりとしての責任があるの』と引かないんです」
母から、生きがいを奪っていいのか……。16歳だった和也さんは、ある決意をする。
「金髪を黒髪に染め戻し、遊ぶために取っておいたお金でスーツを新調。その姿で、おふくろに『できれば、仕事を手伝わせてもらえませんか』とお願いしました。仕事のスタッフは、それぞれの立場でおふくろを守ってくれますが、家族の立場で守る人間も必要だと思ったんです」
和也さんの格好を見たひばりさんは「何、それ」とびっくりしたが、同時に頼もしく、うれしくもあったはずだ。同年10月には、新たなアルバム作成に入る。ひばりさんが意識したのは、ファン層を若い世代に広げることだった。
「ボクが中学生くらいのころから、よく『あんたくらいの年代に、私の曲はわかるの?』って聞かれて、『美空ひばりなんて、誰も聴かないよ』と答えていたんです(笑)。そのためか、若い人の感覚を知りたかったようで、ボクと一緒に『夕やけニャンニャン』を見ていました。だから自然と、おニャン子の仕掛け人の秋元(康)先生のことも知っていたんです」
こうした経緯があったからこそ、アルバム作成の際に秋元康の名が挙がったとき、ひばりさんは快諾したのだった。
「『川の流れのように』のデモテープを聴くと『まるで、私の人生そのものを歌わせてもらえるような楽曲ね』と、強い思い入れを持ちました。本来は別の曲がシングルカットされる予定だったのですが、おふくろのたっての希望で変更になったのです。このようなことは、長い歌手人生で初めてだったそうです」
遺作『川の流れのように』は平成の時代を駆け抜け150万枚を超えるヒットとなり、今なお、幅広い世代で愛されている。