「親父にとっても、理想的な最期だったと思っています。まったく苦しむこともなく、われわれ家族にも迷惑をかけず眠るように逝きましたから」
そう語るのは、2月22日に亡くなった落語家・2代目笑福亭松之助さん(享年93)の次男・明石正之さん(48)だ。松之助さんは上方落語界の重鎮であり、明石家さんま(63)の師匠としても知られていた。そのさんまは亡くなった翌日、新しくオープンした劇場のこけら落とし公演に出演。そこで「師匠、すぐにおそばにいきます……」とネタにするなど、悲しむ様子をいっさい見せることはなかった。
だが実はその後、ひそかに師匠のもとへと駆けつけていたという。正之さんは、さんまの知られざる素顔を明かしてくれた。
「さんまさんは通夜当日に舞台があって、法要には間に合いませんでした。ですが、『終わってからいきます』と連絡をいただいて……。法要後、みんなでご飯を食べているときにほかの芸人さんらと駆けつけてくださったんです。翌日の葬儀は最初から最後までずっと参列していただきました。私は受付けをしていたので詳細はわかりませんが、さんまさんは最後まで涙を見せなかったそうです」
さらにさんまはひそかに、入院中の松之助さんのお見舞いにも訪れていたという。
「ちょくちょく来てくださっていました。大きな処置をする前にはいつも、親父の顔を見に来てくれたみたいです。亡くなる数週間前にも来てくださって……。僕はいつも行き違いだったんですが、病院に行くと親父が『さっき、さんまが来てくれてたんや!』と話してくれました」(正之さん)
最後まで師匠に義理堅い姿を見せたさんま。そこには若かりしころの“ある過ち”が影響していた。
「さんまさんは高校卒業直前の74年に弟子入りしました。しかし入門してすぐ師匠に『やめます』と言って、交際していた女性と東京に駆け落ちしてしまったんです。でも結局はうまくいかず、再び大阪に戻ることになりました。破門されて当然ですが、師匠はさんまさんをとがめませんでした。それどころか周りの師匠に『さんまが帰ってくるから、よろしゅう頼むな』と、根回しまでしていたそうです。再び弟子入り志願に訪れたさんまさんへ、師匠は『何も言うな! ついてこい!』と言って初めて2人で食事をしたラーメン店に連れていったといいます。さんまさんは師匠の優しさに触れて『もう二度と師匠を裏切ることはしない』と固く誓ったそうです。以来、45年前に弟子入りしたときの笑いにかける熱い思いをずっと持ち続けているのです」(芸能関係者)
改心したさんまは、瞬く間にスターの階段を駆け上がっていった。その躍進の陰にも、松之助さんの存在があった。
「放任主義の松之助さんは“褒めて伸ばすタイプ”。タレントとしての才能を見抜いたのも師匠です。『今日で落語をやめて、タレントに専念します』と言ってきたときも、止めることなく後押ししたそうです。さんまさんが成功したのがよっぽどうれしかったのでしょう。その後、松之助さんは自分の名刺に“さんまの師匠”と大きく打つようになったそうです(笑)」(前出・芸能関係者)
さんまがスターになった後も、2人の交流は続いた。
「松之助さんはさんまさんが売れっ子になった後も、定期的に手紙を送っていました。そこでは人生に役立ちそうな先人たちの言葉がつづっていたそうです。ある雑誌のインタビューで、さんまさんは自分の宝物としてその手紙を紹介していました」(前出・芸能関係者)
いっぽうの松之助さんも『サライ』2010年2月号のインタビューで、さんまとの関係についてこう語っている。
《うちのせがれが上京した際はさんまの事務所に寝泊まりさせてもらってます。合鍵渡されて。私らには肉親と同じ気持ちで接してくれてますから、ほんまにうれしいですね》
そんな師匠の訃報を聞いても、さんまは舞台を優先させた。壇上で笑顔をみせ、観客を沸かせる。それが、不義理をした弟子ができる最後の親孝行だと信じて……。
「師匠は『どんなときでもお笑いを優先すべき』と言っていました。そして、さんまさんの笑いが大好きでした。あるとき酔っぱらったさんまさんは、松之助さんに『年をとったら帰る場所は師匠の家しかない』 と言ったそうです。彼にとって松之助さんの存在は師匠でもあり、父親でもあったのだと思います」(前出・芸能関係者)
松之助さんはこれからも天国で、“息子”の活躍を見守り続けることだろう――。