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「とりあえず100歳まで舞台に立ちたい。舞台の上で目をつぶりたいね。あら、あのばあさんどうしたの? って。最後に『頼むよ』と言って、そのまま逝っちゃいたいね(笑)」(本誌17年1月17号)

 

そう話してくれた内海桂子さん。8月22日に97歳で亡くなったと発表された。

 

漫才師として初めて芸術選奨文部大臣賞を受賞し、漫才協会名誉会長も務めた内海さん。まさにお笑い界の“超重鎮”だった。いっぽうで10年8月からは「時代をつかむことも大切」(本誌17年1月17号)といい、Twitterもスタート。49万人以上のフォロワーを抱えるほどの人気を博している。

 

昭和13年、16歳で漫才師になった内海さん。夫婦漫才ユニットの、女性側の代役としてデビューした。

 

昔の夫婦漫才は男性が漫談をして、女性は三味線を弾きながら合いの手を打つのがお決まりだった。しかし内海さんは相づちではなく、ツッコミをアドリブでやってみせた。そうして周囲を驚かせたと本誌19年5月7日号に明かしている。

 

「“そうそう”、“はいはい”だけじゃ、バカみたいだと思ってたからね。ツッコミを入れる女性なんて珍しかったから、“あのコは若いのにスゴイよ”とよく言われましたよ。舞台に上がるたびにネタもどんどん増えてきて、いつの間にかそれが本職になっちゃった(笑)」

 

そんな内海さんの、お笑い人生の土台は昭和初期の経験だという。相方・内海好江さん(享年61)や長男の死、さらに乳がん発病。あらゆる困難に見舞われながらも芸を磨き続けた内海さんは、こう語っている。

 

「小学校3年生から、神田の更科(そば店)で子守奉公を始めたり、私はいろんなことをやってきたの。働きっぱなし、遊んだことないからね。私の強さは、当時の、貧しさからきているのかも」

 

そんな内海さんは昨今のお笑いに思うことがあり、取材中にこう苦言を呈すこともあった。

 

「今のお笑いはお笑いじゃないね。昔はね、何をするにしても、“年季”というものが感じられたんですよ」
「ただ笑わせようとするのは笑いじゃない。無理やり笑わせようとすると、結局えげつないことを言ったり、やったりするしかなくなるんですよ」
(それぞれ本誌17年1月17号)

 

そのいっぽうで19年9月、本誌を通して後輩芸人たちにこんなメッセージも発信している。

 

「ネタがちゃんと完成したものじゃなきゃ漫才に説得力がない。ナイツだってまだまだですよ。私たちがやってきた江戸漫才というものをしっかり受け継いでほしいですね」

 

最期まで芸人であり続けた内海さん。これからはお笑いを天国で見守ってくれるだろうーー。

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