政府は3月、安定的な皇位継承のあり方を検討する有識者会議を招集。女性天皇や女系天皇の是非を含め、皇位継承権の範囲などについて検討を進めている。
現在、皇位継承権を持つのは、秋篠宮さま、悠仁さま、上皇陛下の弟の常陸宮さまの3人だけ。次世代の継承者は悠仁さまおひとりしかいない。女性天皇を容認すれば、愛子さまをはじめとする内親王も皇位継承者となる。また、女系天皇も容認すれば、内親王のお子さまも皇位継承権を持つということになり、安定的な皇位継承に近づくといえる。
菅義偉首相はこれまで「男系による継承が絶えることなく続いてきた重み」をことあるごとに強調してきた。しかし、その発言に異を唱える研究者がいる。
今年1月、『女系天皇 天皇系譜の源流』(朝日新書)を上梓した大東文化大学名誉教授の工藤隆氏だ。その中で工藤氏は「男系と女系がないまぜとなった継承こそが本来のヤマト文化」だと主張しているのだ。いったい、どういうことなのだろうか? その根拠を工藤氏に解説してもらった(以下、「」内は工藤氏)。
「去年の8月、河野太郎防衛大臣(当時)がインターネット番組で『安定的な皇位継承に向け、父方が天皇の血を引かない女系天皇も検討すべきだ』と、踏み込んだ発言をしました。女系天皇容認論を時の大臣が公言したということで話題になったのですが、その河野氏ですら『我が国の皇室は、過去ずっと男系で継承されてきており』という前提で話しています。この認識がそもそも正確ではないのです。
男系での皇位継承が本格的に採用されたのはあくまでも西暦600年代以降です。当時、隆盛を誇っていた中国大陸の唐を手本に国家体制を整える中で、皇位継承についても唐を模倣して男系に限定されたと考えられます」
西暦600年代というと飛鳥時代にあたる。宮内庁のホームページにも掲載されている天皇系図では、初代の神武天皇が即位したのは紀元前660年の縄文時代とされているが、
「縄文、弥生など非常に古い時代にも天皇氏族が存在したかのように記述された天皇系譜は、『古事記』(712年)や『日本書紀』(720年)にまとめられているのですが、それらは700年代初頭の権力集団である天皇氏族が整理・編纂したものであり、客観性という点ではかなり疑わしいのです。
近年の研究では、そもそも『天皇』という称号が登場したのは600年代末、天武天皇、持統天皇の時代です。『古事記』や『日本書紀』で、初代・神武からすべての『大王(族長)』に『天皇』号を与えてしまったことによって、非常に古い時期から天皇氏族が存在していたかのような錯覚が生じています。
王(皇帝)が男系継承でかつ男性でなければならないというのは、もともと中国・漢民族由来の思想です。日本でも、500年代くらいから族長位継承は男系継承優位に傾いてはいたようですが、600年代末から700年代初頭、唐の国家体制を模倣するうちに、天皇につながる古い時代の大王(族長)の系譜も男系でまとめたほうがいいという観念が優位になり始めたのでしょう(男性でなければならないという部分は受け入れませんでしたが)。
そして、以後の皇位継承を男系に限定するだけでなく、それ以前の大王の系譜にも、おそらくはいくつかの創作や改変を加え、初代・神武から続く男系の天皇の系譜として『古事記』や『日本書紀』にまとめたのではないかと考えられます。綏靖(すいぜい)天皇(2代)、懿徳(いとく)天皇(4代)の系譜に残された女性始祖の痕跡や、継体天皇(26代)の系譜に見られる女系継承の痕跡などは、男系継承への整理作業から漏れ落ちた事例だと考えられます」