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3月某日 北イタリア・パドヴァ

この月末、私の友人(イタリア人・女性)が、50歳にして、10年付き合っていた男性と結婚をすることになりました。ふたりとも50代なのに初婚ということに加えて、ある意味イタリアっぽさが象徴されているなと思うのは、二人ともずっと実家暮らしだったということ。お互いそれぞれ帰る家を持ちながらのお付き合いというのが、心地が良かったのだと彼女は言います。

高齢化した母親は病気がちで、家のメンテナンスも彼女がしなければ行き届かない。自分がそこから離れて行くという想定は全然出来なかったのだそうですが、新郎の方も同じく、やはり母親から「離れていかないで」「家族はいつも一緒でしょ」オーラを出しまくられて育ってしまったお陰で、家から出て行くという決意も行為も、彼の人生にとってとてつもなくハードルの高いものになってしまっていたそうです。

そのくらい、イタリア人の家族密着度は高いのです。

 

前回のエッセイでは川崎の事件を取り上げて、日本の母子家庭に育つ子供たちが、自分たちのために日々格闘し、疲れて帰ってくる母親に対して「寂しい」「学校での悩みを聞いてほしい」「うちってどうしてこうなの?」といった不安材料を発信することはなく、自立意識を高く持ち、社会がどんなに恐ろしい場所でも、家の中にではなく、外に居場所を見つけ出そうとする心理を分析してみました。それは、母親から「僕はもう自分の生きる場所があるから、大丈夫だから」という信頼を得るための行為、とも言えるのではないでしょうか。

日本のメディアは「親は社会の闇から子供を守れ」「気付けなかった親の責任」という概要のアプローチをしていたようですが、正直、社会の闇は親である大人たちにとっても、恐ろしいものです。私ももう半世紀も様々な経験を乗り越えつつ、いろいろ鍛えて生きて来た人間でありながら、いまだに「社会」というジャングルの中では思いがけないダメージの素が散乱しており、ポーカーフェースでやりくりしていくのは至難の業です。

ましてや女手ひとつで子供を育てていく、というのは自分を育てて来た母を見ても、そして結婚せずに子供を産んだ私自身の経験からも断言できますが、どんなにがんばっても夫のいる家族のお母さんのようにはなれません。子供を守りながら、自分自身も守っていかねばならないわけですから、そこに消耗されるエネルギーは膨大なものです。

 

野生動物が潔く、早い時期に子供たちを自立させるのは、家族で固まって守り合っていても、自分たちを脅かす外の世界に対して、何の解決策にもならないとわかっているからかもしれません。自分のお腹から生まれてきた可愛い大事な我が子ではあるのだけど(まあこの辺は人間のご都合的解釈だという気もしますが)、ある程度まで成長したら「じゃあ、お互いがんばって、生き延びて行こうぜ!」という、家族というより、遺伝子継続共同体的な本能が発動しているようにも思えます。

 

日本はイタリアと違って社会というものの重要度が、家族よりも優勢な傾向を感じます。野生動物と同じく、いつまでも家族で固まりあっていても埒が明かない、という意識があるからなのかもしれませんが、それぞれが社会で認められ、うまくやりくりしていることに、幸せや安定を見出す構造になっているように思います。

このように日本では、社会の作った世間体の枠からはみ出さずおさまること、社会が優秀と決めたポジションを獲得することが、幸せな家族のフォーマットのようになっているような気がします。だから、たとえば子供は、フォーマットから外れないように、母親に悩みを打ち明けたり心配させたりせずに、なんとか適応しようと苦しむのではないでしょうか。

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