お経を聴くのは葬式の時くらい。それも意味が分からないし、お坊さん独特のリズムで読まれるので、聴いているうちにだんだんと眠くなる……。そんな人は多いだろう。 
それじゃ、あまりにもったいなさすぎる!
仏教のエッセンスが詰まったお経は、意味が分かってこそ、ありがたい。世界観が十二分に味わえる。この連載は、そんな豊かなお経の世界に、あなたをいざなうものである。
これを読めば、お葬式も退屈じゃなくなる!?

著者:島田 裕巳(シマダ ヒロミ)
1953年東京都生まれ。宗教学者、作家。東京大学文学部宗教学科卒業。東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。放送教育開発センター助教授、日本女子大学教授、東京大学先端科学技術研究センター特任研究員を歴任。現在は東京女子大学非常勤講師。著書は、『なぜ八幡神社が日本でいちばん多いのか』『浄土真宗はなぜ日本でいちばん多いのか』『葬式は、要らない』(以上、幻冬舎新書)、『0葬』(集英社)、『比叡山延暦寺はなぜ6大宗派の開祖を生んだのか』『神道はなぜ教えがないのか』(以上、ベスト新書)、など多数。

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◎観音経は法華経の一部

『観音経』というお経は、実は、この前に取り上げた『法華経』のなかに含まれている。

『法華経』は、全体が28章に分かれているわけだが、その第25章は「観世音菩薩普門品」と呼ばれている。

そこから、この章だけをさして『観音経』と呼ばれ、独立したお経として扱われるようになった。それも、観音菩薩に対する信仰が盛んになっていったからだろう。

観音菩薩は、すでに『般若心経』について取り上げたときにも出てきた。観音菩薩は、短い『般若心経』の主役でもあった。

実際、『観音経』は、この『般若心経』とともに広く親しまれてきた。『般若心経』ほどではないが、写経の対象とされるお経の双璧をなしてきた。

 

image◎大火の中に落ち込んでも救い出される

では、『観音経』では、どのようなことが説かれているのだろうか。

まさにそこでは、観音菩薩を信仰することによる功徳について説かれている。

 

『観音経』の主役はもちろん釈迦であるわけだが、その釈迦に向かって、無尽意菩薩が問いかける。

観音菩薩の名前の由来はどうなっているかというのだ。

そう聞かれた釈迦は、いかなる苦難に会おうが、観音菩薩の名前を聞いて、一心にそれを唱えれば、すべてその苦難から解放されると答える。

釈迦が言う、観音菩薩の名前を一心に唱えることの重要性は、すでにふれた功徳譚で強調されていたことである。だからこそ、功徳譚に出てくるわけである。

 

仏教の世界では、「南無阿弥陀仏」や「南無返照金剛」、あるいは「南無妙法蓮華経」のように、仏やお経に帰依することを示すために、その名前を唱えることが広く行われている。

南無阿弥陀仏とは、阿弥陀仏に帰依するという意味である。

それが観音菩薩が対象だと、「南無観世音菩薩」と唱えるわけである。

そうするとどうなるのか。

『観音経』では、観世菩薩の名前を唱えることによる功徳が列挙されていく。

 

大火のなかに落ち込んでも救い出される。

大水のなかに漂ってもすぐに浅瀬が見いだされる。

鬼の住む島に流されても逃れることができる。

処刑されようとしたときにも処刑人の使う刀が折れ砕ける。

悪鬼の邪悪な視線にさらされることもない。

足枷や鎖につながれてもすぐに解けてしまう。

盗賊に襲われても逃げることができる。

 

どんな苦難に直面しても、ただ、「南無観世音菩薩」と、観音菩薩の名前さえ唱えればいいのだ。

あるいは、淫欲や怒りや愚かさからも解放される。根本的な煩悩から自由になれるというわけだ。

また、立派な息子や美しい娘がほしいと願えば、その願いはかなえられる。これは、限りない現世利益がもたらされるというわけだ。

 

ともかく、観音菩薩に対して一度でも礼拝し、供養しさえすれば、六二のガンジス河の砂の数に等しい仏に礼拝し、供養したときと同じ功徳を得られるというのである。

もちろん、なぜ功徳を得られるのか、『観音経』のなかに具体的な根拠が示されているわけではない。

ただ、そういう見方は、現代人のものの見方であって、昔の人は、功徳があると言われれば、それを素直に信じ、それにすがったわけである。

 

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