元CA合コンアナリスト語る壮絶過去「生活苦で母は宗教に」
「合コンアナリスト」「婚活アナリスト」なる聞き慣れない肩書で、雑誌やバラエティ番組で活躍中の松尾知枝さん(32)。著書も多く、結婚相談や合コンのセッティングを請け負う会社を運営する起業家でもある。
知枝さんの生い立ちは、まさに少女漫画的立身出世ストーリーだ。記憶にあるのは、築年数がものすごく古い、壁をひっかくとボロボロ崩れる6畳一間で風呂なしのアパートだという。1980年3月18日、都内の”田舎”で知枝さんは生まれた。父・博幸さん(63)は新聞配達で生計を立てていた。母・あかねさん(63)は専業主婦だ。
「母は絵を描くことと料理が大好き。貧しいながらも工夫して、いろいろ作ってくれました。昔は幸せな家庭だったんです」
しかし、博幸さんはギャンブル好きだった。麻雀、競輪、パチンコにのめりこみ、生活費を入れないこともあった。生活苦が続くうち、美人で自慢のお母さんだったあかねさんは、少しずつ精神の均衡を崩していった。
「小学生に入る前から、母は病気になっていました。6畳一間はゴミ屋敷のように足の踏み場もなくなって、食事はご飯に醤油をかけただけ。ランドセルを買うお金もなく、公的援助で買ったランドセルはビニール製でした」
小学1年も終わるころには、貧乏が理由でいじめられっ子になっていた。そんなとき、あかねさんはおかしな宗教にもハマりこむ。変なかぶりものをして一心に拝む母に恐る恐る声をかけるが、返ってくるのは罵詈雑言だけだった。あかねさんの病状は悪化する一方だった。癇癪が起きると、ときどき娘にも手を上げるようになった。
母が壊れていけばいくほど、頼りの父は帰ってこない。耐えられなくなると、知枝さんは隣の老夫婦の家に逃げ込むようになった。小学5年の新学期。あかねさんがいつにもまして激高し、電気コードを振り回した。プラグの硬い部分が知枝さんの頭や肩を強打する。「今度こそ殺されるかも」と生命の危機を感じた知枝さんは、着の身着のまま、靴もはかずに老夫婦の家に避難し、その夜は担任教師の家で一泊。翌日から児童相談所の一時避難所に預けられた。
2週間後、博幸さんが迎えにきて、一緒にミッション系の児童養護施設へ。施設長と担当シスターの説明が終わると、「じゃあね」の一言だけを残して博幸さんは帰っていった。
「ほんの一瞬、目が合ったけど、見送っても父は一度も振り返ることはありませんでした。不思議と恨みや怒りはなくて、ただ悲しかったですね」
施設での生活は丸8年。高校卒業まで続いた。
当時、施設の子の進学率は10%に満たなかったが、知枝さんは頑張って東京経済大学へ進学。大学時代は奨学金を受けながら、『食っていくため』バイトに明け暮れる毎日だった。容姿の端麗さを生かしてイベントコンパニオンとして華やかな世界に身を置くことで暗い性格を払拭し、人と接する力を鍛えていった。
成田空港の美人コンテスト『エアポートプリンセス』に選ばれ、自信をつけると、CA(客室乗務員)採用試験を受け合格。JALのCAとしてフライトをこなし、合コンにもデビューした。夢だった国際線、ファーストクラス乗務がかなったころ、芸能事務所にスカウトされ、27歳でグラビアデビュー。
その後、飛び込みで出版社に行き、企業500社3,000人以上の合コン数と、それにまつわるエピソードを話すうちに、著書出版が決定。合コンアナリストとして『踊る! さんま御殿』など、テレビ出演も果たし、セミナー講師として、聴衆の前で自分の生い立ちを語ることもできるようになった。’10年、会社も設立する。
「従業員はゼロですけど、女性起業家が集まるシェア・オフィスのような場所を借りて、婚活アナリストとしても活動を始めています」
昨年12月には、ワイン輸入会社の経営者と交際1年でゴールイン。結婚は彼女にとって、諦めずに臨んだ〝かけがえのないもの〟だったという。初めてご主人を連れて実家に帰った日には、いまでは薬さえキチンと飲めば普通に生活できるようになったあかねさんがちらしずしを作ってもてなしてくれたという。
「結婚式には両親も招待したいです。将来は子供も持ちたい。もっと家族の時間が増えて、失っていた過去を取り戻せるような気がします」