慶應義塾大学病院放射線科医の近藤誠先生(64)の“孤独な闘い”は、30年におよぶ。「出世もあきらめて、万年講師だよ」と自嘲したように語ったが、悲壮感はない。社会的な議論を巻き起こした著書『患者よ、がんと闘うな』(文藝春秋刊)から17年。現在『医者に殺されない47の心得』(アスコム刊)が76万部を超えるベストセラーとなっている。
その主張は一貫している。医師や薬に頼りすぎない。抗がん剤も大きな手術も、がん検診もほとんど必要ない。特に早期発見されるような自覚症状のないがんは「がんもどき」で、放っておいてもなんら影響がないという『がんもどき理論』が有名だ。
「多くの有名人が、がんの手術をしてすぐに亡くなっているでしょう。たいていは手術のせい。放っておけば半年や1年では死なない。これまでのがん治療は“信仰”みたいな部分もあると思う。その意味で、医療と宗教は似ているが、宗教と違って医療は人を殺すことがある」(近藤先生・以下同)
最初に論争を巻き起こしたのが’80年代。乳がん患者への乳房温存療法だった。現在では一般的な治療だが、当時は乳房を全摘出するのが標準。そんなとき、所属元である慶応大学の外科が全摘出するのは、犯罪行為と名指しして雑誌に発表した。それ以降、大学病院内では孤立状態が続く。
「手術でポンと切り取ったおっぱいが無造作にお盆にのせられた様子を見て、無残だなと思ったよ。でもね、当時はほかに方法がなかったし、僕がどうこうしようだなんて思いもよらない」
と、研修医生活1カ月ほどで、初めて乳がんの手術に立ち会ったときをふり返る。当時はハルステッド法という乳房の全摘出が当たり前の時代。転機は31歳。担当教授の推薦で米中西部の研究所に1年留学。そして、慶応病院に戻って実践しようと考えたのが、留学で知った乳がんの乳房温存療法だった。だが、その認知度は低く、慶應の外科も理解がない。もっと温存療法について知ってほしい、全摘手術への疑問を世に伝えたい……。そのたぎる思いが雑誌への手記につながっていく。
「雑誌(’88年『文藝春秋』手記『乳がんは切らずに治る』)が出た翌日からほかの科からの紹介者がただの一人も来なくなった。これは今日に至るまで続いている。たまに新人が事情を知らずに患者を回すけど、上司に怒られているんじゃないかな(笑)。でもね、ワイフは“僕の医療”に決して反対しなかった。たくさんのアドバイスやデータをくれたし、僕にとっては誰よりも信頼できる医者でした。当時も今も」
妻は慶應大学医学部の同級生。一目ぼれだった。5年生の2月に学生「できちゃった」結婚。その後、妻は長女を出産して、慶應病院で病理医として働くようになる。長女は母のことを「よく言えば天真爛漫。そして間違っていることは間違っていると言うタイプ」と証言する。似た者夫婦なのだろう。近藤先生自身も「ワイフは金儲け主義の医療には批判的だし、基本的に考えは一致している」と、それを認める。
患者には「がんと闘うな」と言いながら、近藤先生自身の、変化を嫌う体質の医療界との闘いはその後も続く。’00年代に入ってからは、抗がん剤治療もすべてやめた。「白血病など、一部のがん以外に抗がん剤は効かないとわかった」からだという。来年は定年退職。いったんは完全引退を決めたが、患者たちの「私たちはどうなるの」の声に撤回。セカンドオピニオン専門の外来施設の開設を決意した。
「セカンドオピニオンが一般的に知れ渡ったとはいえ、現場の医者には露骨に嫌う人もいる。とくにその相談先が『近藤』だと聞くと、態度が豹変する医者もいるとか。そんな患者の受け皿が、必要です」
なかなか日本に定着しないセカンドオピニオン。その専門施設を近藤先生が造るとなれば、再び注目され、議論が巻き起こるのは必至だろう。
「本物のがんというのは、今の医学では治せないけれど、命がけで治療するほどの病気ではない。がんは老化現象だから。治療さえしなければラクに死ねるのが普通で、高齢者にとっては、天からの恵みのようなものだと思う」