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「ハロー、イラッシャイマセ」

 

きれいな藍色のデニムシャツに身を包んだ黒人男性が、英語まじりの少々たどたどしい日本語で接客を始めた。言葉を向けた相手は若い女性客。彼女が眺めていた棚には、栃木の伝統工芸品・益子焼の器が並べられていた。

 

ここは東京・新宿。セレクトショップ「BEAMS(以下、ビームス)」が、“日本”をキーワードにファッションと文化を発信するための拠点「ビームス ジャパン」。今年4月にオープンした。

 

柔和な笑みを浮かべ、女性に商品の説明をしていたのは、ジャマイカ系イギリス人で、同社のレーベル「フェニカ」のディレクターを務めるテリー・エリスさん(54)。彼のすぐ後ろには、エリスさんのパートナーで、同じくディレクターの北村恵子さん(54)の姿もあった。北村さんは補足をしながら、彼の言葉をていねいに日本語に訳していく。

 

2003年、「デザインとクラフトの橋渡し」をテーマにスタートしたフェニカ。日本の手仕事のものを中心に、衣食住にまつわる商品をセレクトしている。しかし、ふたりはそのレーベルが立ち上がるずっと前から、日本各地の焼き物や染め物などの工芸品、民芸品の作り手を訪ね歩いていた。20年がたち、彼らの仕事ぶりはいま、「現代の民藝運動」とも評されるようになっていた。

 

民藝運動とは、西洋のアート作品でもなく、東洋の古美術品でもない、無名の工人たちの手仕事で作り出された日用品に「用の美」を見いだそうという運動のこと。思想家で美術家の柳宗悦が提唱し、陶芸家の河井寛次郎や濱田庄司らが参加。戦前戦後を通じ一大ムーブメントとなった。いま、私たちが普通に使っている「民芸」という言葉も、もともとこの運動で柳らが使い始めた造語といわれている。

 

「ソレモ……イイデスネ、デモ、コレモ、イイデスネ」

 

場面は再びフェニカの商品棚の前。ひとつの椀に手を伸ばした女性に、エリスさんは少し違った風合いの皿を見せてこう声をかけ、またニコリ。

 

「ほんとだ、これもカワイイ。民藝の焼き物って、ほっこりするんですよね。でもこれ、ちょっと重いかなあ」

 

その反応に、エリスさんと北村さんは一瞬、苦笑いにも似た表情で顔を見合わせた。売場をあとにする女性の背中を見送りながら、北村さんは言葉をこぼした。

 

「最近は民藝や手仕事、イコール“癒し”というイメージでとらえる人が多いですよね。でも、私たちはそう思っていないというか、決してそれだけじゃないというか。もっと力強くトガっているもの、そういう認識なんです」

 

北村さんの話す日本語の意味を理解してか、エリスさんも「イエス、イエス」と何度もうなずく。

 

「きれいで美しいだけじゃない。ニッポンの民藝に惹かれるのは、その奥に強さとか、少しだけ怖さもあるから」

 

民藝運動以来、いま何度目かのブームを迎えているといわれるニッポンの工芸品。その人気を少なからず後押ししたのが、エリスさんと北村さんだった。なぜふたりは民藝を、手仕事の品々を、再び世に問おうと思ったのだろうか。

 

「産業革命からおよそ150年。アジアやアフリカなどの一部を除いて、世界には機械で大量生産されたものがあふれかえっています。ジャマイカも、かつては貧しい人たちのなかに、手で作られたものを使う文化は残っていました。でも、すぐ近くに大工業国のアメリカがあって、ある時代から、大量に流入する工業製品を尊ぶ風潮が根付いてしまった。肌によくなじむコットンよりも、乾きの早いポリエステルのシーツのほうがありがたい、というようにね。いまや欧米では、ハンドメイドされた品は芸術作品であり、一部のお金持ちが飾るためだけのアートになってしまいました。でも日本では、まだ少し背伸びをすれば、誰かが手で作った器でご飯を食べたり、手仕事の染物を普段着にしたり、日常で使うことができる。そんなぜいたくが許されている国は、先進国ではニッポン以外にはないんです。どうか、そのことは忘れずにいてください」(エリスさん)

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