東京都町田市に「アンコール・トム」というカンボジア料理店がある。32年続くこの店を開いたのが、元難民のペン・セタリンさん(61)だ。すでに店は、娘で女優のモニカさん(33)夫婦に任せ、セタリンさん自身は、カンボジアの貧しい子供たちに教育の場を与える活動家として、日本と首都プノンペンとを行ったり来たりの生活だ。
「私が日本に来たのは、日本文学を研究するための留学でした」(セタリンさん・以下同)
そう、彼女は難民として来日したのではない。日本滞在中に、母国に政変があって難民になったのだ。少女時代、童謡『月の砂漠』や映画『座頭市』で日本を知ったセタリンさんが憧れに夢を膨らませ、国費留学生として日本にやってきたのは18歳のとき。カンボジアでは’70年に内戦が始まり、当時すでに政情は不安定だったが、来日当初は母親や7人の弟妹たちと文通ができた。だが手紙の内容は、しだいに緊張をはらんだものへと変わっていった。
’75年、内戦終結とともに事態はさらに悪化。ポル・ポトによる残虐支配と鎖国政策が始まり、以後、セタリンさんには、母国で何が起きているのか、家族の情報すら一切、入らなくなってしまった。東京学芸大学の大学院に進んだころ、ニュースで知った故国の状況はあまりにもショックだった。’78年末にベトナム軍がカンボジアに侵攻し、大勢のカンボジア難民がタイへ流出した。
翌々年の’80年、難民キャンプに収容されていた弟2人と妹1人の所在がわかり、なんとか日本に呼び寄せられた。
「成田まで迎えに行きました。みんな、私に飛びついてくるかと思っていましたが、奇妙に静かで。ポル・ポト政権下では黙っていたほうが身のためだったのでしょう」
すっかり無口になった弟妹は、栄養失調で子供のような体形なのに足だけが大きい。
「17〜18歳の弟2人は、『妹は学校へ行かせてあげて。でも、僕たち働くよ』って。涙が止まらなくなりました……」
博士号を目指していたセタリンさんだったが、学業はいったん諦め、就職するために難民認定を受け、在留資格を変更。’81年から知的障害者施設の指導員として働き始め、同じ年、留学生の先輩だったレンさんと結婚。’83年、モニカさん出産を機に障害者施設を辞め、’85年に「アンコール・トム」をオープンさせた。アンコール・トムは、カンボジア人の集う場所を作りたいというセタリンさんの思いがこもった店だ。
店を切り盛りしながら、セタリンさんは通訳や翻訳の仕事を始め、並行してカンボジア語−日本語の辞典を作る仕事に着手。今ではこの辞典が、日本語を学ぶカンボジア学生たちにも役立っている。50歳のとき、彼女は一度諦めた学業に復帰し、博士号を取得。さらに首都プノンペンの大学教授に就任した。母国では、親が国外に出稼ぎに行っている幼い子供たちを保護し、育てている。
セタリンさんは「難民」という言葉が、いいイメージで語られないことは知っている。それでも、彼女は難民だったことを隠さない。
「『難民』って、“政治的圧力などのために亡命するひと”というように、けっこう偉そうな定義なんですよ(笑)」
そんなセタリンさんも、難民として過ごしたのは10年ほどだ。’90年には帰化し、日本人になっている。
「日本人、カンボジア人という“何人”ということではなくて、ブレずに、正しいと思う道を正直に生きていれば、皆が応援してくれて、きっと生きることもうまくいくと思うのです」