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日差しがさんさんと降りそそぐ宮下家のリビングルームに一歩入ると、何枚もの女性の写真が出迎えてくれた。写真のところどころに傷がある。変色している箇所もある。どれも東日本大震災の津波に流されたものだった。記者の脳裏に、6年前の光景がよみがえった。

 

「あっ、お母さんの写真があったぁ。これもお母さんだ!」

 

「これ、私のアルバム!ほら、お母さんがいる!」

 

それは大震災から4週間後のこと。宮城県名取市立閖上小学校の体育館には、がれき撤去の際に掘り起こされた流出品が集められていた。被災者たちが黙々と、思い出の品を探すなか、当時12歳だった宮下奈々さんと9歳の奈月さん姉妹が小さな声を上げていたのだ。写真についた泥を小さな手で拭い、写っていた母の顔をそっとなでる。ぬれてヨレヨレになったアルバムも破れないよう丁寧にめくっていた。姉妹の母・久実さん(享年38)は、いつも笑顔だった。

 

あのとき見つけた家族写真が、いまもリビングのあちらこちらに飾られている。仏壇の遺影のなかから、家族が集まるこたつを囲むローボードの上から、久実さんは変わらず優しくほほ笑んでいた。

 

長女の奈々さんは18歳になった。ふっくらした頬はツヤツヤで、笑うときは大きな口を開けて白い歯を見せる。相手を和ませる笑顔が素敵な少女だ。

 

「いまは宮城県農業高校の3年生です。4月から仙台医健専門学校に新設される『こども保育科』の一期生です」(奈々さん・以下同)

 

ハキハキと話す奈々さんの成長ぶりがまぶしい。12歳のころは、一緒に暮らす祖母・ヨシ子さん(73)の顔色をうかがうように、取材に答えていたというのに。

 

「ずっと保育士になる夢は持っていました。私、一度決めたら“揺らがない人”なんで」

 

そんな孫娘をヨシ子さんも頼もしそうに見つめていた。’11年3月11日。この日を境に、東北の人々の生活は大きく変わった。厚生労働省の調査によれば、’15年9月の時点で、ひとり親になった18歳未満の子ども(震災遺児)は1,538人。そして両親ともに失った子ども(震災孤児)は244人。

 

奈々さんは3人きょうだいで、兄の直人さん(20)は東京の専門学校2年生。一人暮らしをしながら、ゲームクリエーターになるために勉強している。中学3年生の妹の奈月さんは4月から、仙台の高校で「クリエイティブ声優コース」に通って、声優を目指す。シングルマザーだった母を亡くした宮下家の子どもたちも、それぞれの春を迎えようとしていた。

 

6年たっても、いまだ久実さんは見つかっていない。閖上小学校では毎年、卒業する子どもに宛てて、親から手紙を送ることになっていた。あの年、卒業を控えた奈々さんのために、久実さんも手紙を書いていたという。

 

「『家事とか、どんなことでもいろいろこなせる素敵な人になってください』って、お母さんが書いてくれたんです。それが、いちばんの宝物かな」

 

奈々さんの専門学校は3年制。3年後、彼女はどんな保育士になるのだろう。

 

「私の幼稚園のときの先生みたいに明るくて、優しい先生になりたいな。保護者にも信頼されたいな」

 

夢は大きく広がっていく。未来へと−−。

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