「モデル時代は、1万円以下は“小銭”でした。金銭感覚がまったくないから、毎晩パーティ、服を買うときはラック丸ごと。『お金がなくなったら、またショーに出て稼げばいいや』という感覚でしたね」
こう振り返るタレントの林マヤさん(60)。パリコレのモデルとして活躍していた当時の、ランウェイ1回のギャラはトップクラスで100万円。ショー開催期間は、一日に何度もランウェイを歩いていた。
ただ、華々しい生活を送っていたときの年収は、まったく把握していなかった。その後、モデルを引退し、アパレル業界にいた夫・笛風呂タオス氏(57)を誘ってジャズの世界に入る。音楽CDの制作や自腹でライブ活動をするが、金銭感覚は変わらぬままだった。
そんなある日、住んでいたマンションで電気とガスが止められ、初めて自分の借金に気づく。しかもその金額は1億円以上だった。
「複数持っていたキャッシュカードがキャッシングのできるタイプで、気づかないうちに限度額に達していたんです。電気とガスを止められて初めて、自分がいかに無知でバカだったかに気づきました」(マヤさん・以下同)
友達だと思っていた取り巻きたちも借金を頼むと、クモの子を散らすように離れていったという。ある日、外に出たら、みんなが自分をあざ笑っているように思えて、ひきこもりになった。家にあった食料も底をつき、最後に残っていたのは猫缶の一山だけ。
「それを食べたら、塩味がしないんです。すごくみじめになって。あ、林マヤ、終わったなって……」
働く気力も生きる気力もない。うつになっても病院に行くお金もない。夫と2人で、唯一残っていた所有物の車を走らせた。行き先は富士の樹海。崖に車を止めて、アクセルを踏めば崖から落ちるというところで、あることが起こった。
「サーッと風が吹いたんです。『あぁ、風だ』と思って、風の吹く先をみたら、『ソフトクリーム』の旗がはためいていました。猫缶を食べ尽くしてから何も食べていなかったので、車にあった小銭で1つ買って2人で食べたんです」
そのときに夫がぽつりと言った「うめーな」は今でも忘れられない一言だ。
「『ああ、私のせいでこの人の人生をここで終わらせてはいけない』と思いました」
それからはお金を返すために奔走した。お金を貸してくれた親や知人には時間をかけて返済することを約束し、銀行には低金利で返済できるプランを組んでもらった。
「夫は“カッコいい林マヤ”の大ファンでいてくれて、私もカッコよくなりたかったのに、超カッコ悪い自分を見ちゃった。それが悔しくて、絶対に違う自分を作りたかったんです」
その悔しさをバネに借金を返すため、1日いくつものバイトを掛け持ちした。朝はお弁当屋さん、お昼は喫茶店、夜はスナック。夫は、日中は肉体労働を、夜中は2人でチラシのポスティングをした。ボタン付けなどの内職もしたという。
やがて、タレントとしての仕事も入るようになり、アルバイトと並行しながら16年かけ、夫婦が50歳のときに借金を完済した。
「長かったですね。借金が0になったとき『これでようやく自分たちの人生を送れる!』と、2人で茨城に移住することにしました」
若いころからダイエットのしすぎで、たびたび体調を崩していたこともあり、健康を心配した夫は農業に興味を持つように。
「食の細い私のために有機栽培でレアべジ(珍しい野菜)を作ってくれるんです。私は今でもビジュアル重視のところは変わっていなくて、色や形がかわいいと喜んで食べるから(笑)」
今では2,400平方メートルの畑で年間約120種のレアべジを作っている。地元の若い農家さんたちとのつながりもできた。2人が生活していく分の収穫は十分にある。
「今は畑の畝が私のランウェイ。借金でどん底を味わいましたが、今思うと、あれが私の心の宝物になっています。最高のパートナーと一緒に、自然に囲まれた生活、最高に幸せです」