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東京大学特別栄誉教授の小柴昌俊さんが11月12日、老衰のため亡くなった。94歳だった。

 

小柴さんは観測装置「カミオカンデ」を建設し87年、同装置によって超新星爆発で放出されたニュートリノを世界で初めて検出。ニュートリノ天文学を開拓したことが讃えられ、02年にノーベル物理学賞を受賞している。

 

さらに97年に文化勲章、03年には勲一等旭日大綬章も受賞するなど華々しい経歴を持つ小柴さん。そのいっぽうで、4歳のときに実の母親を亡くしている。

 

「お父さんはもともと軍人で、戦後は公職追放された人だったそうです。ですから小柴さんは学生時代から1歳上のお姉さんとともに、家族の生活を支えていたそうです」(全国紙記者)

 

そんな苦学生だった小柴さんの研究人生は、2人の恩師に支えられたものだった。

 

「小柴さんは、65年にノーベル賞を受賞している物理学者の朝永振一郎先生を人生の師としていました。東京大学の物理学科に入った年に会いにいって意気投合。『とにかく相性が良かった』といい、朝永先生から怒られたこともなかったそうです。

 

大学卒業時の成績は優が2つだけでしたが、小柴さんは小谷正雄先生のもと東大の助教授に。先生同士、同じ理論の仕事を一緒にしていたため『成績はダメだけど』と朝永先生が推薦してくれたのだと小柴さんは考えていました。ですから、『2人には頭が上がらない』と話していました」(前出・全国紙記者)

 

その研究人生に重要人物がもう1人いる。それは、妻の慶子さんだ。慶子さんは03年、本誌の特集ページ「あなたへの遺言状 第21回」に登場。そして様々なエピソードを明かしている。

 

2人が結婚したのは小柴さんが33歳のとき。慶子さんは28歳だった。

 

「彼の生い立ちと夢が重なり合って、周りの人にはない魅力を感じたものです」

 

「彼のほうは、私と結婚するときに『親や弟のことよりも自分自身の生活なのだ』と気持ちを切り替えて、結婚に踏み切ったようです。私のほうは、最終的には“この人を支えてあげたいなぁ”と思っての結婚でした」

 

交際時からデートに行く機会は滅多になかった。また結婚後に即渡米。のちに現地で子育てすることになったものの、それでも小柴さんは研究に夢中。そんな様子から慶子さんは「マサトシはワイフを放ったらかし」と近所の人に心配され、「家で一緒に食事をしよう」とたびたび誘われたという。

 

しかし病院を経営していた父のもと“お嬢様”として育てられ、世間知らずなところもあったという慶子さんは「私も大勢の人に支えられているんだなぁ」と生まれて初めて実感し嬉しかったという。

 

「40歳くらいまでは、主人に愛されているというよりも、私が主人を支え尽くしたという気持ちが正直なところですね」とも本誌で述べていた慶子さん。いっぽう小柴さんと結婚したことで多くの縁が生まれた。そのため本誌を通して小柴さんに、こんな言葉を贈っていた。

 

「とても感謝しています。幸せな人生でございます」

 

周囲の助けを借りながら研究に打ち込んできた小柴さん。天国でも満足の笑顔を見せていることだろう。

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