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「僕は音楽という表現方法があったから今まで生きてこれたなと思います。もし、音楽がなければどうなっていたかわからない・・・今、自分が生きていることが不思議なくらい・・・。」

X JAPANのリーダーYOSHIKIは言葉を静かに紡ぎながら、自らの人生を振り返り始めた――。

今月25日に発売された初の自伝『YOSHIKI/佳樹』(小松成美著・角川書店刊)では生い立ち、父の自殺、X JAPANの軌跡など彼の半生が克明に綴られている。

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YOSHIKIが生まれ育ったのは千葉県館山市。呉服店の長男として誕生。裕福な家庭環境で育ったが、小児喘息を患い入退院を繰り返す幼少時代を過ごした。

「母にも『病気で死ぬのではないかと思ってた。生きていることが奇跡』と言われるほど身体が弱かったんですね。夜に喘息の発作が出ると、僕だけ違う別の部屋で寝かされたり・・・人生で孤独を覚えたのもそれからです」

ピアノとの出会いは4歳のころ。身体の弱かった彼に両親は愛情を一身に注いだ。

「両親には過保護に育てられましたね。父はよくジャズピアノを弾いていました。父の譜面を見ながら僕も弾いてみたら、父より僕の方がピアノが上手だったんですよ(笑)。そのことを父に話すと父は笑っていました」

父はYOSHIKIのどんな悪戯にも笑顔だったという。

image「僕
が父親のレコードを何百枚も家の2階から庭に投げまくったんです。割れる爽快感が楽しくてね。その時も父は笑ってました。一言も怒られたことなはかったで
すね。その経験でものを壊すのを悪いと思わなくなったのかな(笑)。また父はリンカーン・コンチネンタルに乗って雨の日によく学校まで迎えに来てくれて。
それも嬉しかったですね」

彼の誕生日には毎年、楽器を贈った父。だが、愛する父は彼が10歳の時、突然帰らぬ人となった。76年8月。34歳という若さだった。

「夏休みの器楽クラブから帰ると父が布団に寝かされていて。でも頭には白い頭巾を被っていて・・・」

帰宅したYOSHIKIは、親戚の人たちから「お父さんは病気で寝ている」と聞かされる。だが10歳の少年は、その異変を身体で察知した。

《・・・ふいに胸の奥から激しい感情が噴き上げ喉元で弾け散るのを感じた。そして、大きく目を見開いた彼の全身に不規則な震えが伝わって
いった。わめき声が泣き声に変わり佳樹はその場に倒れこんだ。「何でそんな嘘をつくの! お父さんは病気なんかじゃない。死んじゃったんでしょう! だか
らここに寝てるんでしょう」》(「YOSHIKI/佳樹」より

「人が死ぬって身近で起こるとは思わないじゃないですか。子供だし
生と死の違いもわからないし。あのとき、僕は気持ち悪くなるまで、倒れるまで泣いたのを覚えています。人生には消えていく思い出と鮮明な思い出と二つある
と思うんですよ。この瞬間のことは、まるで昨日のことように鮮明に覚えているんです。でも、その後のことはきっと脳がシャットダウンしようとするんでしょ
うか、まったく記憶が定かでないんです」

母と弟と3人になった彼の家族は、その後、互いを気遣い父の話を一切しなくなった。

image「僕と父が一緒に写った写真って少なくて10枚もないんです。母もきっと父との思い出が辛くて父親の物は全部処分しちゃったんですね。それから一切、シャットダウンして父の話はしなくなりました。だからでしょうね、詞を書くとそういう父への思いが出てくるんだと思います」

当時、父の死が自殺であることをYOSHIKIは知らされていなかった。数年後、中学生時代、親戚の家で偶然に耳にして知ってしまう。

「本当にびっくりしました。湧いてきたのは父への怒りで、その思いはきっと今もおさまっていないんですよね。父へ思いは、愛、恋しさ、怒りがミックスされていて自分でもよくわからないんですよね」

過去を封印し家族3人で寄り添いながら過ごした彼は、母に連れられて「KISS」のライブへ行き、「ロックスターになる」という夢を持った。

「中学で『夢はロックスター』と言ったら先生に『真面目に考えろ!』って殴られました。でも、そのことで生まれた反抗心からロックスターの夢がかなったんですからね。人生って不思議ですね・・」

1982年にX JAPANを結成。CDセールスは2100万枚を越え、コンサート動員数は100万人以上。93年にリリースされたYOSHIKI作詞作曲の『tears』は、亡き父への思いがこめられている。

世界進出を目指した97年、ボーカル・TOSHIの脱退により解散。翌98年再び、YOSHIKIに悲劇が襲う。

5月2日、メンバーのHIDEが急死。33歳だった…。

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