『アンパンマン』の作者として知られる漫画家・やなせたかしさん(享年94)が、10月13日、心不全のため息を引き取った。

 やなせさんは、1919年に高知県香美市で誕生。幼いころに父を亡くし、母は再婚。伯父の元で居候のような形で暮らしていたという。その後、従軍も経験し終戦後は、高知新聞社に就職した。そこで、妻となる暢(のぶ)さんと出会う。

「若いころの奥様は、やなせ先生をリードするようなところのある、キビキビと闊達な方だったそうです。一緒に食べたきのこ鍋でみんなが食中毒になったとき、奥様が先生を看病されて、愛が生まれたのでしょうか」(仙台アンパンマンこどもミュージアム&モールの佐藤慶夫館長)

 その後、やなせさんは上京。暢さんの下宿に転がり込み新婚生活が始まった。漫画家として独り立ちを目指すやなせさんに、「収入がなければ、私が働いて食べさせてあげるから」と、暢さんは励ました。しかし、40歳を超えても代表作を発表できなかった。そんな苦しみのなかから生まれたのが『アンパンマン』だった。

「仕事以外はすべてカミさんに頼っていた。散髪も彼女にしてもらったし、病気になると全力で看病してくれた」(やなせさん)

しかし、’88年、夫の活躍を見守る暢さんに乳がんが見つかる。余命3カ月と医師から告げられるが、ワクチン治療と手術で奇跡的に延命。1年後には好きだった山歩きも再開できるほど回復した。その後、’93年に暢さんは再入院。やなせさんの手を握ったまま安らかな最後を迎えた。享年75だった。

「奥様の遺骨は東京と高知に分骨されています。やはり、お墓参りにすぐに行けないと寂しいようなので、『すぐ会いに行けるように』とおっしゃって、先生の希望で分骨されたんです」(『アンパンマン』出版元フレーベル館のアンパンマン室・天野誠室長)

 やなせさん夫妻と親しかった近所の住民によると、暢さんは茶道教室を自宅で開いていたという。亡くなって20年になるが、その茶道教室の部屋は今でもそのまま残されているそうだ。亡き妻を身近に感じていたいという、やなせさんの思いが伝わってくる。

「先生は奥様から元気をもらっていたのでしょう。奥様は『たかしさんがテレビやいろんなメディアに出演して、頑張っている姿を見るのがとっても好きなんです』とおっしゃっていたそうなんです。頑張っている姿を奥様に見せるため、先生は取材をたくさんお受けになられていたのでしょう」(佐藤館長)

 妻を亡くした後も、体を壊しても、90歳を超えても、やなせさんはメディアの露出をやめず、創作への執念を燃やしていた。それは、天国の妻への変わらぬ愛の証だった。生前の本誌での取材では、将来は暢さんと同じ高知のお墓に入るつもりだと語った。

「カミさんは『あんたと一緒になんか入りたくない』って言ってたけどね(笑)」(やなせさん)

 やなせさんの死後、印税やキャラクター使用料などでの遺産は、400億円にも上ると報じられた。

「先生と奥様との間にはお子さんはいらっしゃいませんが、『アンパンマンが自分たちの子どもだ』というお話をされていましたね。故郷の高知県香美市にアンパンマンミュージアムをつくったときには『これがぼくのお墓だ』と、おっしゃっていました」(天野室長)

関連カテゴリー:
関連タグ: