本誌隔週連載の「中山秀征の語り合いたい人」第10回のゲストは、歌手・俳優・演出家の美輪明宏さん(78)。その半生を振り返りながらお話いただきました。
中山秀征「美輪さんはシンガー・ソングライターやビジュアル系の元祖でいらっしゃいますが、どのようにしたら新しいものを生みだせるんですか?」
美輪明宏「私が19歳で傾きかけた銀巴里(ぎんパリ)の運営を任されたころに、GIがくれたアメリカの雑誌で、フランスの芸術家や文学者たちが今で言うパンクファッションをした写真を見ましてね」
中山「パンクが生まれるずっと前ですよね?」
美輪「ええ。私はそれを見て、自分もこれと同じようなものを作ればいいじゃないか、と思ったわけなんです。それで図書館へ行って、室町時代の観阿弥、世阿弥から、元禄時代からずっとファッションを調べたんですよ。すると、どっちが男で女かわからないようなファッションがたくさんあって。じゃあこれを現代に移そう、と作ったのが世界で初めてのビジュアル系なんです」
中山「新しいものを作るのに過去を調べた、ということですね」
美輪「そうです。レディー・ガガのファッションだってね、戦前にエルテが絵に描いてますし、ファッションとしてもポール・ポワレという人がすでにやっていたんです。マイケル・ジャクソンの『スリラー』もロシアンバレエの人たちがとっくにやっていましたし、今は新しい表現方法なんて何もないんですよ」
中山「でも多くの人は知らないから新鮮に感じるわけですね。ビジュアル系も当時の人の度肝を抜いたんでしょうねえ(笑)。シンガー・ソングライターを始めたのはどういう?」
美輪「銀巴里で私は、聴かせてやるってスターぶって歌っていたわけですよ。そんなとき、出稼ぎに来ていた青年たちが、100円札を握りしめてレジに並ぶとこを見ましてね。この人たちが苦労して貯めたお金に匹敵するだけの歌を私は歌えているだろうか、って。そう思ったら冷や汗がダーッと出てきました。そこから『人を慰め、励ます歌でなければ存在理由はない』と意識が切り替わったんです」
中山「出稼ぎの若者の100円札を見て」
美輪「小さいころから、貧しい人たちをたくさん見ていましたし、そうした人たちの哀しみや苦しみ、劣等感もわかっていましたから。そんなときに炭鉱町に行くことになって。その人たちを前にひらひらした格好をして歌っているのが、軽薄で情けなくて恥ずかしくて。穴があったら入りたくて」
中山「当時は、炭鉱町も貧しい人が多かったでしょうからね」
美輪「そのとき『この人たちに必要な歌は何だろう?』と思ったんですが、歌う歌がないんですよ。フランスには貧しい人たちの歌がたくさんあるのに日本には戦争反対の歌の一つもない。じゃあ、私が作ろうじゃないの、とシンガー・ソングライターの元祖をやりだしたんです」
中山「そうして貧しい庶民のための『ヨイトマケの唄』や去年の紅白で歌われた『ふるさとの空の下に』などが生まれたんですね」