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「大阪の町を歩くと、よく『あ、五代さまや〜』って声をかけられるようになりました。ボクも思わず『五代やで!』って大阪弁で返しています。そろそろディーン五代と名乗ろうかと思うくらい(笑)」

 

連続テレビ小説『あさが来た』(NHK)で、明治初期に大阪経済界のために尽力した五代友厚を演じているディーン・フジオカ( 35 )が、大ブレーク中だ!撮影スタジオのある大阪に転居して4カ月弱。すっかり大阪に溶け込んでいるというが、

 

「ドラマでは薩摩弁、大阪弁、英語、中国語の“4カ国”のセリフを使い分けていますが、大阪弁はしんどいですね。プライベートでは使いこなせず、『せやなあ』くらいで終わっちゃう。方言指導の先生にアクセントを教えてもらったり、大阪弁のセリフを録音したボイスレコーダーを、何度も聞き直して覚えました」

 

こうして必死に大阪になじもうとする姿は、まるでドラマの中の五代友厚とそっくりだが、“洋行帰り”という点でも共通している。実はディーンは台湾や香港など中国語圏を中心にボーダレスに活躍し、日本に“逆輸入”された俳優兼ミュージシャンなのだ。

 

「ドラマのプロデューサーは、ボクの経歴を見て五代役に抜ばつ擢てきしてくれたのかもしれません。でも、五代さんは150 年前の人なのに、200年後、300年後の日本を考えて、命がけで幕末にヨーロッパに密航した人。パスポートとチケットがあれば、簡単に海外に行ける時代に生まれたボクとは覚悟は全然違うと思いますよ」

 

4カ国語を操り、ボーダーレスに活躍するディーン。現代版“五代さま”は、どのようにして世界へと飛び立ったのだろうか――。

 

早く日本を出て海外で暮らしたい

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ディーン・フジオカは’80年、福島県須賀川市で生まれた。現在もインドネシアで音楽制

作をしているが、その影響は母親によるところが大きい。

 

「自宅でピアノ教室を開いていました。音楽好きで、家にはピアノのほかドラムセット、エレクトーン、サキソホン、グロッケンなどたくさんあって、幼いときから遊び道具にしてました。ただ、ピアノは母に無理やりやらされて嫌いになったこともあって、長続きしませんでした。今になって後悔していますが……」

 

国際感覚は、IT関連の仕事をしていた父に育まれた。

 

「日本人ですが中国生まれで、日本に住みながら海外へは度々仕事で出張していました。ボクがちっちゃいころは、湯船で10カウントするのは中国語でしたし、父が英語を教えてくれることも。外国人のお客さんをアテンドすることも多くて、家に招くこともありました。それに海外出張に行くと、お土産にマイケル・ジャクソンやディズニーのビデオを買ってきてくれてましたね」

 

幼いころから海外の文化に触れる機会も多かったこともあり、中学生のときから“早く日本を出て、海外で暮らしたい”と両親に語っていた。反対したのは、意外にも海外生活が豊富な父親だった。

 

「留学するなら日本の高校を卒業してからと言われました。でも、いまあらためて振り返ると、あのとき父は帰るべき“家”というか、自分のルーツがしっかりと根付いてから、留学したほうがいいと考えていたのだと思います」

 

日本の高校を卒業後、アメリカ西海岸のシアトルの大学で念願の留学生活を始めた。ところが……。

 

「空港からアパートに向かうとき、道案内の矢印どおり右方向のシアトルに行くと思ったら、車はなぜか反対側のタコマという町に。間違ってシアトル“近郊”の大学に入学してしまったんです。キャンパスでは殺人事件があったり、夜は治安が悪くて『金を出せ』と強盗に遭ったことも。半年もたたないうちにシアトル市内の学校に転校しました」

 

波乱の幕開けとなった海外生活だが、見るモノ、出会う人、すべてに驚かされた。

 

「6カ国語をネーティブのように扱う人、某国王族や首相の家系の人、アートの世界でも、音楽の世界でも飛び抜けた人が多くて、圧倒されました。共通しているのは、みんな国境の壁を取り払って世界で活躍していることでした」

 

大学でIT関連の勉強をしていたディーンは、将来はアメリカで起業することを夢見て、就職活動をしたが、9・11の影響でビザ取得に失敗、頓挫してしまった。

 

「弁護士を雇って移民局と交渉することも考えましたが、それは時間とお金の無駄。せっかく時間ができたのだから、バックパッカーとしてアジアを旅して回ることにしました」

 

どこに向かってるかわからない苦しみ

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‘05年、“欧米だけでなく、アジアにも視野を広げたい”そんな思いで向かった香港で、

大きな転機を迎える。

 

「ヒップホップが好きで学生時代からラップをやっていました。香港のあるクラブでオープンマイクのイベントをやってたので飛び入りしたら、そこにたまたま香港のファッション誌の編集者がいて『モデルをやってみないか』とスカウトされたんです。エンタテインメントの仕事をすることはまったく考えたことすらありませんでしたから、モデルも最初は“恥ずかしい”という感覚だったんです」

 

海外生活ではいつの間にか、果敢にチャレンジすることも身につけていた。

 

「せっかく人に見込まれたのに、変なこだわりを持って新しい自分のチャンスを失うのはもったいないと考え直したんです。貧乏旅行だったから、お金が目的でしたけど」

 

最初は1回だけの撮影だったが、その仕事が次の仕事につながり、それが別の仕事に。活躍の場は雑誌からテレビCMへと広がった。

 

「香港のアーティストのミュージックビデオに出させてもらってから演技の仕事も入り、’05年、’06年と香港の映画に2本も立て続けに出演しました。1週間の滞在予定だった香港旅行が1カ月になり、1年になったんです」

‘06年から台湾に拠点を移したが、映画、テレビドラマの出演オファーが途切れることはなかった。’09年にはインドネシアのジャカルタで新たに音楽活動を始め、それ以降は台北とジャカルタを行き来する生活を送っていたが……。

 

「同じ場所に何週間もいられない生活でした。朝起きると自分がどこにいて、どこに向かっているのか、わからない苦しみもありました……」

 

世界に挑戦する若者を支えたい!

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しかし、’12年、中国系インドネシア人女性と結婚したことで“人生”が変わり始めた。

 

「彼女と同じ時間を過ごすことで、心がおだやかになるんです。それで気づかされました。自分が帰属できる“家”が欲しいと苦しんでいたけど、それは物理的な家や国ではないんですね。自分のハートがやすらぐ人といると、そこが“家”になるんです」

 

昨年には双子の父となった。自分が帰るべき“家”が見つかったディーンは、アメリカ、そして日本へと活躍の場を広げる――。

 

「家族がジャカルタに住んでいるので、一緒に生活できないのは寂しいし、今後、生活の拠点をどこに移すのかが一番の悩みです。子どもたちには日本のいい部分は伝えたいけど、国籍にこだわりはありません。ただ、かつて父がボクを心配したように、子どもにはできるだけ家族が一緒に過ごせる“家”が大事だと思っています。最近は日本の仕事も増えてきたので、東京に住むことを考えていますが、実は妻とはふだんから英語で会話していて、彼女は日本語がまったくできないんです。それが心配で……」

 

悩みは尽きないが、夫、そして父親になったことで、自分の中に新たな変化も生まれてきたという。

 

「これまでは自分のやりたいこと、自分の幸せを第一に考えてきたけど、“何か人の役に立つことを残したい”と考えるようになりましたね」

 

そして今年、自己犠牲を払って大阪のために生きた五代友厚に朝ドラで出会った。

 

「五代さんとまではいきません。でも、国境を取っ払って、世界で果敢にチャレンジしていこうと思っている若い人たちの下地作りができれば、うれしいですね」

 

そう言うと、ディーンは傍らの五代友厚像を見やり、足取り軽く大阪の町の雑踏を駆け抜けていった。

 

 

撮影/ただ(ゆかい)

 

 

 

 

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