羽生結弦 東京ドーム公演で“脚本家”デビュー!恩師語っていた「彼は文章うまい」
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■自ら脚本執筆、自伝的な物語仕立てのショーか

 

規格外のショーの中身について、『朝日新聞』12月6日朝刊のインタビューで羽生が話している。

 

《いま、自分で物語を書いています》

 

前出のスポーツ紙記者によると、

 

「ショーは物語仕立てだといいます。そして羽生さん自らがその脚本を執筆したようです」

 

“脚本家デビュー”とは驚きだが、本誌は以前、羽生の大学の卒業論文を担当した恩師に「彼は文章がうまい」と聞いたことがある。

 

さらに、羽生はこう続けている。

 

《僕の人生って、きれいごとでまとめようと思えばまとめられるんです。でも、『私たちと一緒だな』と『羽生結弦って、普通の人間だな』って思えるような物語を考えています》

 

コメントから読み解くに、自身の人生を色濃く反映した自伝的なものになるということだろう。前出のスポーツライターもこう分析。

 

「羽生さんの人生には輝かしい瞬間がたくさんありますが、そういう光の部分よりも、きれいごとでない“闇”の部分を見せようと考えているのではないでしょうか」

 

五輪2連覇を遂げ、個人では史上最年少で国民栄誉賞を受賞。人格面でも礼儀正しい好青年。“ヒーロー”のような羽生だが……。

 

「強く優しく見える羽生さんだって、思春期にはお母さんに反抗したこともあったそうですし、SNSの誹謗中傷を見れば傷つき怒りを覚えることもあるでしょう。また、コロナ禍で仙台でたった一人で練習を重ね苦しんでいた時期もありました。このときのことを、『暗闇の底に落ちていく感覚だった』と本人が話しています。そしてやはり震災のことは彼の人生に大きな影を落としているでしょう」(前出・スポーツライター)

 

前出の坂本館長が、震災当時の八戸での羽生の様子を改めて語ってくれた。仙台の地元のリンクが使えない状況のなかで、

 

「羽生さんは、仙台から当時のコーチだった阿部奈々美さんの車に乗って、2人で来ていました。八戸のホテルに3~4泊して練習して帰って、また数日後に3~4泊してという感じでしたね。八戸でも使用できる電気は最小限でした。当時は天井がガラスだったので、そこから入るわずかな光で、練習されていたんです」

 

八戸のリンクの薄暗闇の中で練習する16歳の羽生が、震災の傷を抱えて苦しんでいたことは想像に難くない。

 

「『プロローグ』の中でも、羽生さんはあえて震災の映像を流しています。彼にとって、つらさを忘れないことは大切なこと。“闇”に落ち込んで、もがいた経験が光になっているとも感じているのだと思います」(前出・スポーツライター)

 

羽生が“闇”を晒して挑むショーに、数万人が酔いしれるーー。

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