「今年はマラソンの練習現場には行きませんでした。私はもう今年で卒業ということで、どこかでケジメをつけたいと日本テレビ側に伝えたんです。局の方から『国技館に来れませんか?』と言われたので、行く予定ですが、画面に出ることはしないと思います」
そう語るのは92年、間寛平(75)から始まった『24時間テレビ』の名物企画・チャリティマラソンのプロデューサーとして参加タレントを30年以上指導してきた坂本雄次さん(76)だ。
神奈川県茅ヶ崎市に生まれた坂本さんは東京電力に入社し、1978年から職場の駅伝チームの監督を15年務め、選手を育ててきた名伯楽だった。今回、30年以上関わった『24時間テレビ』チャリティマラソンの思い出を本誌だけに語ってくれた。まずは寛平との出会いから――。
「寛平さんはまだ大阪が拠点で、これから東京に進出しようとしていたんですね。当時、さんまさんが東京に進出してガンガン人気が出てきていた。2人はすごく仲がいいので東京に進出した寛平さんが“自分も東京でやってみたい”と。そのために、何か目立つようなきっかけがほしいとのことでした。
当時、テレビ朝日で朝のワイドジョーで東京から大阪までを一週間で走るという企画があり、寛平さんがやることになったんです。ちょうどそのころ、私は東京電力にいて、日本橋から始まる旧五街道を使って、自分たちのグループで大阪まで5日間で走るという企画をやったんですね。自分たちで独自の走行地図も作ったんです。そのことを寛平さんがメディアの方から聞いて“私たちの地図を借りたい”と言ってきたのです」
その結果、坂本さんは会社の許可を得て名古屋~大阪を寛平と並走することになった。
「大阪に到着して吉本の劇場の近くのラーメン店で打ち上げをしたんですけど、そこで寛平さんから『今年の秋にギリシャでスパルタスロン(アテネからスパルタまで走るマラソン大会)がある。一緒に来てくれないか』と。それでギリシャに一緒に行きました。私は駅伝とフルマラソンしか経験がありませんでしたが、246キロというとてつもない距離をサポートすることになったのです」
寛平の激走が『24時間テレビ』の名物企画につながった。
「そのとき私も日本テレビ側から“マラソンを手伝ってくれ”と言われたんです。私はサラリーマンなので無償で手伝いました。92年の『24時間テレビ』で寛平さんは時間切れでリタイアしてしまいますが、視聴率が良くて翌年も寛平さんが走ることになりました。最近は皆さん100キロ以下ですが、寛平さんは200キロと倍の距離を走っていたんです。タレントというよりアスリートですね(笑)。寛平さんが参加した海外のレースはほとんど帯同させてもらっています。地球1周まわるアースマラソンもやりました」
坂本さんが『24時間テレビ』のチャリティマラソンで貫いてきたこととは――。
「私は今年までですけど、ずっとサポートという立ち位置でやってきました。ランナーを走る気にさせなければいけないし、走りながら彼らが何に困っているのか、何が必要かを並走しながら見ていかないとサポートできません。身体のことや、技術のこともわかっていないとできません。今では一緒に走る別のランナーがいますが、スタートから20年近くは私が1人ですべてやっていました。食べ物、着替え、体のマッサージ全てです」
坂本さんは45歳で会社を退社した。
「サラリーマン時代の給料はそこそこ良かったんですよ。私は45歳で辞めたんですけど、それなりの退職金をいただき、会社をおこすことにしました。他のマラソン大会に関わるようになりましたが、赤字続きでしたね。無謀でした(苦笑)」