■一切れのサラミを夫婦で分け合って…
10月8日の同作の完成報告会見が西田さんが姿を見せた最後の公の場となった。
「西田さんはほかの出演者と別の動線で登壇したのです。会見中も以前のような張りのある声は発せず、米倉さんや内田有紀さんが、すぐにフォローできるように気遣っている様子を見せていたのが印象的でした。それでも会見後には共演者たちに声をかけていました」(前出・映画関係者)
遺作となった同作の撮影現場でもアドリブを連発していたという西田さん。
“アドリブの名人”としても知られる彼を鍛えたのは、森繁久彌さんとの若いころの共演経験だったという。
《(森繁さんは)ほとんど、台本と違うことをおっしゃるんです。それに対応するアドリブを随時入れなければならない。一つの場面全部、台本を一切使わずに終わってしまったこともあった。鍛えられましたね》(『読売新聞』’00年1月6日付)
テレビドラマ『あんたがたどこさ』(TBS系)の第2シリーズ(’75年4~9月)出演中のエピソードだというが、当時、西田さんは、妻・寿子さんと前年に結婚したばかりだった。
「西田さんと寿子さんが出会ったのは’73年だったそうです。西田さんが出演していた舞台『写楽考』を寿子さんが友人と見に来たのです。
寿子さんは大分県出身で、短大卒業後はニッポン放送に入社したものの、1年ほどで退社し、劇団の養成所に通う、いわゆる“女優の卵”でした。西田さんは寿子さんに一目ぼれし、猛アタックの末に、寿子さんのアパートに転がりこむ形で同棲生活がスタートしたそうです」(前出・スポーツ紙芸能デスク)
’74年8月5日に2人は入籍した。しかし駆け出しの俳優と女優の卵の生活は楽ではなかったという。
「同棲時代や新婚当初は、寿子さんがウエイトレスの仕事で生活費を稼いでいたのです。
西田さんの証言によれば、冷蔵庫に一切れ残ったカリカリのサラミを『うまいステーキだね』と言いながら、2人で半分ずつ食べたこともあったとか。
婚姻届を出した帰り、デパートに寄って西田さんが買ったのが、3万円ほどのトパーズの指輪でした。寿子さんの誕生石はパールだったのですが、その指輪の値段が高すぎて手が出なかったため、寿子さんが『あなたの誕生石のトパーズでいいわ』と助け舟を出してくれたのだそうです」(前出・スポーツ紙芸能デスク)
入籍直後、寿子さんは週刊誌のインタビューにこんな決意を明かしている。
《生活のきびしさは覚悟しています。どんなに笑っているときでも、彼の目だけは寂しそうなの。でも、そんな寂しさのある目を失ったら、彼は役者としておしまいだと思うんです》(『週刊平凡』’74年9月2日号)
2人で銭湯に通うなど、西田さんも“『神田川』のような生活”と語っていた新婚時代。
しかし寿子さんの口癖は、“生活のためにやりたくもない仕事はやってほしくない”だった。
結婚を機に仕事に恵まれるようになり、収入が増え始めても、寿子さんはそんな“神田川精神”を忘れなかった。