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10月31日に映画『京都ALS患者嘱託殺人事件』が公開される。本作が取り上げたのは2019年11月に京都市中京区で発生した、ALS患者に依頼されて宮城県と東京都の医師が薬物を投与して依頼者を殺害した事件である。監督は「和歌山毒物カレー事件」を検証した『マミー』(2024)で自らの闇をも曝け出し鮮烈な印象を残した二村真弘(48)。満を持して公開される本作は、観客になにを問いかけるのか――。

 

私たちはこの凄惨な事件について、ニュースやワイドショーを通じて「知ったつもり」になっていなかっただろうか。メディアが作り上げた「狂った医者」と「難病に苦しむ被害者」という分かりやすい構図。しかし、本作はその単純なストーリーを根底から覆し、事件の印象をガラリと変えてしまう劇薬のようなドキュメンタリーだ。スクリーンに映し出されるのは、裁判と報道から決定的に抜け落ちてしまった、生々しく、あまりにも残酷な「社会の不作為」の連鎖である。

 

今回、本作の公開に先立ち、二村真弘監督にインタビューを敢行した。前作『マミー』で、和歌山毒物カレー事件における林眞須美死刑囚(65)の有罪判決がいかに脆い土台の上に成り立っているかを執念の取材で炙り出した監督は、なぜ次なる題材にこの事件を選んだのか。監督自身の言葉から、本作に込められた強烈な問題提起を紐解いていく。

 

■「彼女の訴えは、どこへ行ってしまったのか」――裁判傍聴で覚えた強烈な違和感

 

二村監督が本作の取材を本格的に開始したのは、2024年の末から2025年にかけてのこと。事件発生当初は、一人のニュース視聴者として「こんな事件が起こったのか」という程度の認識だったという。監督を突き動かしたのは、大阪高裁で行われた大久保愉一(48)の控訴審判決の傍聴だった。
『マミー』の公開を経て、監督の元には様々な事件についての情報や声が寄せられるようになっていたという。その一つとして「こんな事件がある」と声をかけられ、誘われる形で大阪高裁で行われていた公判を傍聴したのが始まりだった。

 

法廷に足を運ぶ前、監督は被害者である林優里さん(当時51)が生前にTwitter(現X)に残していたご壮絶な記録を一通り読み込んでいた。林さんは2011年にALSを発症、まもなく生活保護のもとで単身生活を開始した。そして、2019年に亡くなるまで24時間介護を受けて生活していた。

 

そこには、ALS(筋萎縮性側索硬化症)という難病の身体的な苦しさ——息苦しさや、とめどなく溢れる唾液を飲み込めず溺れるような苦痛——だけでなく、彼女を取り巻く「介護環境」の冷酷な現実が綴られていた。

 

介護現場が慢性的な人手不足に苦しむなか、排泄や入浴といった極めて私的なケアであっても、男性ヘルパーが行う、「異性介助」に頼らざるを得ない構造的な課題があった。ギリギリの態勢で支える現場の大変さを林優里さん自身も理解し嘆きながらも、日々の生活のなかでは、一部の介助者との関係性において、暴言や乱暴な扱いと言った場面にも直面していた。

 

逃げ場のない密室の中で、発病前はキャリアウーマンとして輝いていたはずの彼女の尊厳は日々削り取られていたのだ。そうした発信を踏まえて傍聴した裁判の判決に、監督は強烈な違和感を覚えたと語る。

 

「裁判の判決を読むと、当然刑事裁判ですから『大久保愉一がいかに医者として偏った思想の持ち主なのか、異常性があったのか』ということに終始してしまうんですよね。実際に林さんがどういう困難を抱えていたのかということにはほとんど触れられることなく、大久保の医者としての人格が破綻していることが切々と語られていました。それを聞いた時に、林さんの訴えっていうのはどこにも届けられていないな、と感じたんです。大久保が悪いのは当然だし、罪に問われるのは致し方ないとしても、じゃあ林さんが訴えていた内容はどこへ行ってしまったんだ、と」

 

誰も彼女の本当の声に向き合おうとしない。報道もまた、大久保の猟奇性にばかりスポットライトを当て、林さんがなぜそこまで死を望まなければならなかったのかという「足元の問題」が抜け落ちていた。

 

「裁判だけでは語りきれないことがあって、それを引き受けるべきは社会であったりとか、この事件を受けてどう見るのか、何を考えかるのかは我々の役割かなと思ったんですよね」

 

■「ヒーロー」ではなく「共犯者」。DMが明かす主導権の所在

 

本作が提示する最も注目すべき事実の一つは、林優里さんと大久保の関係性である。一般的には、生きることに絶望し安楽死を望む患者に、過激な思想を持つ医師が忍び寄り、言葉巧みに誘導したかのように思われている。しかし、二人が交わしたダイレクトメッセージ(DM)のやり取りから読み解けた事実は、全く異なるものだった。

 

「2人の関係性がすごく顕著に表れていて、衝撃的だったのは、単純に2人の信頼関係だけではなくて、むしろやり取りの中で『話をリードしていたのは林さんの方』だったと感じました。大久保にとっては、(殺人を犯すことは)リスクでしかないわけですよね」

 

大久保にとって、24時間体制でヘルパーが常駐し、定期的に訪問診療が入る林さんの自宅で彼女を殺害することは、医療関係者が「10人中10人が、絶対にバレる、誰でも分かる」と言うほど逃げ切れない状況だった。では、なぜ彼は犯行に及んだのか。

 

「単純に林さんが安楽死したいと訴えていたから、大久保は自分がヒーローとなるような形で近づいたということではなく、むしろ、林さんが大久保を最後の頼みの綱だと考え、何としても会話を続けようとしている跡が見て取れた。DMの中で林さんは、医療者に対する愚痴だったり、自分の要望がなかなか聞き入れられないというようなことを切々と綴るわけです。それは大久保にとっては、自分が試されているようなものでした。

 

散々大久保は自分のTwitterの中で、終末期医療において患者本人の意思や切実な思いが尊重されない現状に対し、強い憤りを示していた。だから林さんは『今私は大久保さんが言っているのと同じようなことをされているのに、あなたは何もしないんですか』というような、ある種の駆け引きをしているのが二人のやり取りの端々から伺えるんですよね」

 

それは善意や同情などという生易しいものではなく、過酷な現状からどうしても抜け出すための、彼女にとっての必死の試みだったのではないだろうか。この事実を知る時、観客は「被害者と加害者」という境界線が曖昧に溶け出し、二人が社会のシステムから見放された果てに結んだ特異な「共犯関係」を見せつけられることになる。

 

■「優里は被害者じゃない」――友人の証言がもたらした確信

 

映画を制作する上で、二村監督は林さんの思いに共鳴していたSNS上の知人や、大久保の母親など、多様な視点を絶妙なバランスで配置している。その中で、監督自身の取材の方向性を決定づけたのは、映画本編には顔を出さない、林さんの古くからの友人の言葉だった。

 

事件後、メディアは林さんを「生きたかったのに殺されたかわいそうな被害者」として祭り上げた。一部の識者や支援者も「彼女は本当は生きたかったはずだ」と結論づけようとしていた。しかし、病になる前から彼女を知り、発症後も面会に訪れていたその友人は、監督の取材に対してこう伝えた。

 

「優里さんが亡くなった時にどう思いましたかと聞いたら、彼女は『(優里さんの)願いが叶ってよかった』と言い切ったのです。なぜなら『彼女は被害者じゃないから』と。事件が発覚してからは、優里さんがあたかも被害者のように扱われていましたが、そうした報道に彼女自身が違和感を覚えていて。『優里は被害者じゃない。ずっと死にたいって言っていた。いくら私たちが生きる方向に促そうとしても、彼女は態度をずっと変えなかった』と明かしたのです」

 

この証言を聞いた時、監督は確信を持った。林さんは一貫して死を訴え続けていた。その強烈な意志の裏側には、健常者には到底想像もつかない、生き続けることへの苦痛があったのだ。

 

「その話を聞いた時に、取材している方向性としては間違っていないんだなと思いました。彼女はやっぱり一貫して死にたいということを訴えていた。それは裏返しとして、どれだけ苦しい思いを日々されていたのかっていうことだったんですよね」

 

一方で、本作は大久保の実像にも迫る。大久保自身が運営していたとみられるブログ「高齢者を『枯らす』技術』などで冷酷無比な医師として印象づけられてしまった大久保本人に、二村監督は大阪拘置所で面会を果たしている。そこで監督が直面したのは、世間が作り上げた「モンスター」とはかけ離れた姿だった。

 

「凄く意外でしたね。当初の報道では、感情が読めない冷酷な医者みたいなイメージでしたが、実際会ってみるとそうではなくて。凄く気の弱いというか、自己肯定感の低そうな人物でした。面会してる間もほとんど目を合わせることはなく下を向きながらボソボソ喋っていたり。裁判中もそうだったんですけど、ちょっと同情的な言葉をかけるとすぐに泣くんですよね、涙を流すんです。イメージとのギャップはありましたね」

 

幼少期から「お前はダメだ」と実母から否定され続けた成育歴。SNSで過激な発言を繰り返すうちに、フォロワーが増え「いいね」がつくことで承認欲求を満たし、言葉が鋭利に尖っていったという現代的な病理。検察は、そうした彼の過激な発言だけを証拠として切り取り、「生命軽視のモンスター」という完璧なストーリーを作り上げて裁判を主導した。

 

二村監督は、ここに前作『マミー』で和歌山毒物カレー事件を取材した時と同じ「構造的な問題」を見る。

 

「事件が起きた当初の報道のされ方がセンセーショナルであればあるほど、裏には全く違ったものが隠れていて。それは裁判がちゃんと終わって冷静になってもう1回出された証拠等を踏まえて検証しないと、実はどうだったか分からないというのが『マミー』の時に取材した実感としてあったんです。今回の事件も和歌山カレー事件も構造的には同じでした。

 

大久保自身はかなり長い間接見禁止がついていて本人の言葉が全然メディアに出ないまま、警察が出してくる内容等がどんどん報じられていって『こんなひどい人物だ』ということがそのまま報道されていく。大きな事件であればあるほど、同じような構造があるなと思いました」

 

■安楽死論争の欺瞞。患者の権利が守られない社会への警鐘

 

事件発覚後、日本社会では「安楽死の法制化」を巡る議論が沸き起こった。「これほど苦しむ人がいるなら安楽死を認めるべきだ」「いや、命を軽視するな」という対立。しかし、二村監督はその喧騒から距離を置く。監督自身は、現在の日本における安楽死の法制化には明確に反対の立場をとっているのだ。

 

「結局そういう安楽死の是非の話になったが故に、林さんが訴えていた内容、もっと足元の彼女の苦しさだったり、ヘルパーの人手不足や労働環境、また耐え難い苦痛がありながらも緩和ケアなどに繋がることができない医療制度の問題だったりが何も顧みられないまま議論が終わっていった。それが非常に残念だなと思いました」

 

監督が安楽死の法制化に反対する理由は、取材を通じて浮き彫りになった患者と医療者の間に存在する絶望的なまでの「権力勾配(不均衡)」にある。

 

「取材をしていく中で、やはり医療者と患者の関係が未だに凄く不均衡であると痛感しました。林さんの『こういった治療はしてほしくない』とか『紹介状を書いてほしい』との訴えを、無視していいのか。患者が訴える権利が守られていないということが凄くよく分かったんですよね。

 

医療者側も林さんの『死にたい』という切実な訴えを認識してはいたものの、現行の法制度や医療の枠組みの中では応えようのない葛藤があり、具体的な打開策を見出せないまま、結果として対応が先延ばしになってしまっていた側面もあったのではないでしょうか。

 

そういった患者と医療者の関係が不均衡な状態で『安楽死』というものが法制化されると、医療者だったり周囲の圧力によって、患者が本来考えていないことまで実行されかねない。だから法制化に関しては慎重にやるべきだし、まずは患者の権利をどう確保するのか、どうすれば本人の意思を尊重した形が取れるのかをまず考えるべきだと思ったんです」
本作を観終わった後、もはやこれまでと同じ目でニュースを見ることはできなくなるはずだ。この国の医療と介護、そしてメディアのあり方を根底から問う、極めて危険で、かつ見逃してはならない作品である。

 

映画『京都ALS患者嘱託殺人事件』は10月31日(土)より〈東京〉ユーロスペース、〈京都〉京都シネマ、〈大阪〉第七藝術劇場ほか全国順次公開

画像ページ >【写真あり】事件の印象をガラリと変える映画『京都ALS患者嘱託殺人事件』(他3枚)

出典元:

WEB女性自身

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