031 [E:note]お母様が病気になられたのはいつでしょうか。
りりィ 具合が悪くなって東京の病院に入院したというところから始まるんですけど。それから、3か月ぐらいでしたねえ。お見舞いにはたまに行っていました。
[E:note]お母様がお亡くなりになったあとにデビューですね。デビューはお幾つのときですか。
りりィ 20歳です。それまではさっきのような生活ですね。18歳の後半ぐらいで、最初の事務所と知り合っています。それからは、事務所がかりでやっていたんですけどね。19歳のときにレコーディングが始まって、という形です。
[E:note]スカウトですか。
りりィ そうですねえ。私はあんまりやりたくなかったんですけど、どうしてもと言われて、「じゃあ、2年だけ」とか言って。ウフフ。
だって、いまは誰でもイージーに芸能界って考えられるけれども、あのころはそんなふうに考えられなくて。レコードを出すなんてことも、そういう感覚が自分の中になかった。いまだったら、ちょっと手を延ばせばできそうな感じがあるけど。私は身内もいなかったから、託していいのかどうか恐いじゃないですか。だから、「2年だけ」という条件をつけたんですけどね。でも2年目で『私は泣いています』が売れたものだから、辞められなくなってしまったんですよ。
[E:note]『私は泣いています』は、そのころに作った曲ですか。もっと前に作った曲ですか。
りりィ そのころですね。
[E:note]20歳のころというと、1972年ですね。僕は、72年生まれです。
りりィ へえ~。
[E:note]1972年が、確か浅間山荘です。そういう時代だったんでしょうね。
りりィ そうかもしれませんね。私は、そっちのほうは全然だから。私の、たぶんお兄さん、お姉さんの時代でしょうね。私は、そういう学生運動が全部終わったあと。
[E:note]高橋伴明さんは早稲田の先輩ですが、3日ぐらいだけ大学に行ったとおっしゃっていましたね。
りりィ 彼なんかは、そのまっただ中ですね。
[E:note]伴明さんも、東大が潰れて早稲田に移って来たときに、学生会館から大隈講堂に向かって 石を投げていたとおっしゃっていました。伴明さんは完璧にそういう感じの人だけど、りりィさんは反戦とか、そういった運動はまったくないんですね。
りりィ 反戦は関わっていますよ。ベトナム戦争の。反戦までは訴えてないけれども、そういう波がありまし032た。でも、学生運動とは違うんですね。私たちはベトナム戦争のころなんですよ。全共闘とか、そういう人たちは武器を持って戦って、私たちは武器を持たずに反抗するという、反政府みたいな感じで。「攻撃はしないけど、言うことは聞きませんよ」という時代なのね。
[E:note]ウッドストックなどの情報は入ってきていましたか。
りりィ ちょうどぎりぎりかな。私は、そっちのほうですね。日本でロックがずっと流行ってきて、日比谷の野外音楽堂とかで100円コンサートとかをやっていた時代ですよね。
[E:note]野音で100円コンサートをするんですか。
りりィ うん。皆、100円持って集まって来るの。
[E:note]ジョイントですか。
りりィ そう。いろいろな人が出るの。私の歌は当時ジャズの方向に行っていたものだから、そのロックコンサートは観る側でした。面白いなあと思って観ていたんですけど。

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