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11月11日、新しいダウン症像を考える「第1回日本ダウン症会議」が大正大学で開催された。オープニング・アクトを担うのは、ダウン症の子どもたちのためのエンタテインメントスクール「LOVE JUNX」(以下・ラブジャンクス)の精鋭たち。ブレーキングチーム(選抜チーム)のメンバー11人だ。

 

9月にCD化した持ち歌『LALALA One Life』を待寺優さん(27)が歌い終わると一斉に、10人のダンサーがステージに飛び出して行く。複雑なステップを華麗に踏み、背中で床をスピンするコ、ブレークダンスを決めるコもいる。シャープな彼らのダンスは、ぽっちゃりした体形、先天的な心臓病など、ダウン症から連想するイメージを一気に吹き飛ばす。観客のダウン症の子どもや家族、福祉や医療関係者から、ため息が漏れた。

 

その舞台袖に、かがみ込みながらリズムをとり、手拍子を打ち、ついには一緒に踊り出した女性がいた。牧野アンナさん(46)。ラブジャンクスの創設者である。父は、あの安室奈美恵を見いだした沖縄アクターズスクール(以下・アクターズ)の創設者で校長のマキノ正幸さん(76)。アンナさん自身、スーパーモンキーズの結成メンバーとして、安室とともにデビューした元アイドルだ。

 

引退後も、アクターズのチーフ・インストラクターとして、MAXやSPEED、三浦大和、黒木メイサ、満島ひかりなどを育ててきた。現在は、AKB48やSKE48の振付指導も担当。SKE48のファンからは、その厳しい指導ぶりに「鬼軍曹」「クラッシャー・アンナ」などと呼ばれている。

 

しかし、ラブジャンクスでのアンナさんは違う。オープニングのダンスを終え、満場の拍手のなかを意気揚々と戻ってきたメンバーたちを迎え入れた彼女は、一人ひとりに温かい声をかけた。

 

「みんな、もってるね~。今日はスゲエ叫んでたね。パワーが伝わってきたよ」(アンナさん・以下同)

 

そして、メンバー全員と次々にハグしていく。メンバーたちもみんな、笑顔だ。

 

「ラブジャンクスでは、彼らも私も、ものすごくハッピーにやっていますから。ブレーキングチームのコたちなんて、私、同志だと思っています。一緒に手探りしながら、いくつものハードルを一つひとつ超えてきた、同志なんです」

 

芸能活動の難しさ、厳しさを教えてくれたのが、来年9月16日での引退を発表した安室奈美恵だったという。

 

「引退を知ったとき、奈美恵らしいなと。彼女のキャラクターは強烈です。スターになる宿命だったコだと思います。彼女の能力、努力、背負っているものも含めて、こんな生き方は私にはできないと思った。奈美恵と一緒にやったからこそ、私は潔く、きっぱり表舞台から身を引いたんです。今の私があるのは、奈美恵のおかげ。そう思っています」

 

20歳のアンナさんをリーダーに安室、後のMAXのナナとミーナ、そしてヒサコ(新垣寿子さん・振付師)の5人で結成されたスーパーモンキーズは、’92年9月に、第1弾シングル『ミスターU.S.A.』をリリース。デビュー前は、アンナさんがセンターだったが、デビュー後は、安室に代わった。

 

「ステージで一緒にパフォーマンスをしていると、わかるんです。観客もスタッフも、みんなの視線が奈美恵に集中する。技術も大事だけど、もっと大事なのは、人を引きつける魅力。奈美恵にはそれがある。でも、私にはなかった」

 

圧倒的な才能の差を目の当たりにして、アンナさんは、父の言葉を思い出していた。

 

《スターになるのは、才能を持った人がさらに努力した結果だ。おまえは裏方。裏方として輝く道だってある》

 

’92年年末。アンナさんはスーパーモンキーズをやめて、沖縄に帰った。スターになる夢はきっぱり捨て、指導者として生きる道が定まった。’98年8月、SPEEDがデビューし、アンナさんは4人のメンバーを育てたインストラクターとして、脚光を浴びる。

 

’98年には「沖縄アクターズスクール全国オーディション」がスタート。さらに正幸さんはインターナショナルスクール開校に向けて動きだし、アクターズは、アンナさんに任せきりになっていた。

 

そんなある日、インストラクターとして人望を集めるアンナさんがスクールを乗っ取ろうとしているという疑念が、正幸さんのなかで湧き上がる。正幸さんは、生徒たちの前で何時間もアンナさんを罵倒した。アンナさんが根も葉もない疑惑で、チーフ・インストラクターを解任されると、翌日から、彼女に挨拶する生徒は誰もいなくなった。

 

「15年間、私が沖縄で積み上げてきたものが、たった1日で失われてしまうのか、と」

 

居場所がなくなったアンナさんは、横浜に引っ越し、’88年に正幸さんと離婚した母と暮らし始めた。鬱々とした日々だった。父とはもうやっていけない。アクターズをやめたい。でもやりたいことが見当たらず、横浜校でレッスンを続けていた。

 

ダウン症の子どもたちと出会ったのは、そんなころ。日本ダウン症協会からの依頼があり、’02年8月のイベントで、子どもたちが踊るダンスを教えることになったのだ。

 

「最初は不安もありました。正直、怖さもありました」

 

ダウン症児は体力がない。心臓が弱い。激しい運動は避けるべき。そんなネガティブな情報しか入ってこなかった。ところが、最初のレッスンで、不安は一気に吹き飛んだ。アンナさんは、まず、お手本として踊ってみせた。すると、子どもたちはあちこちで立ち上がり、勝手に踊りだしていた。笑顔がはじける。いつまでもダンスをやめない。

 

「よっぽど楽しかったんでしょう。私は忘れかけていたんです。ダンスって楽しいんです。それを子どもたちが思い出させてくれました」

 

イベント終了後、生徒やお母さんたちの前で、「これから、この子たちのために生涯かけて、一緒にダンスをやっていきます」と宣言した。自分の能力を生かし、自分自身も楽しめる場所。それをアンナさんは見つけたのだ。

 

アンナさんは沖縄へ飛び、アクターズをやめ、ラブジャンクスを立ち上げた。’02年10月、彼女は30歳になっていた。安室にどうしようもない才能の差を思い知らされてから10年。アンナさんは、自分の人生を歩き始めた。

 

今後の目標は、ラブジャンクスの紅白出場と東京オリンピックのイベントでの活躍、スクールの全国展開。アンナさんと生徒たちの可能性は無限に広がっていく――。

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