「最初の2年間ぐらいは仕事をセーブしながらなんとか介護を続けました。でも、介護制度の変更で、これまで自宅で受けられたサービスが大幅に受けられなくなってしまって。これがきっかけで、仕事を一時休止して、私が母のそばでずっと介護をしようと決めました」
ときおり涙を浮かべながら、3年前に亡くなった最愛の母、美年子さん(享年83)の思い出を語ってくれた、女優の杉田かおるさん(56)。
介護の始まりは’13年8月。長年患っていた慢性閉塞性肺疾患(COPD)が悪化し、美年子さんは病院に救急搬送された。幸い命は取り留めたが、退院後も24時間の在宅酸素療法が必要になる。ここから4年半にわたる杉田さんの介護の生活が始まった。
「私のデビュー作の『パパと呼ばないで』が、毎週、再放送されている時期があって、母と一緒に楽しみに見ましたね。当時の思い出話をしたりして(笑)。母の楽しそうな顔を見ていると“あっ、女優になってよかったな〜”と。親孝行ができた気がしました」
’72年、杉田さんは7歳のときにテレビドラマ『パパと呼ばないで』で子役デビュー。彼女は子役から大人になる過程で、人生を左右する大きな出会いが2回あったそうだ。最初は12歳のときーー。
「子役からデビューすると、大体“12歳の壁”というものにぶつかります。男の子だと声変わりの時期。女の子だと生理が始まるころ。当時の私も、自分がどういう立ち位置で表現をしていけばいいか戸惑っていました。そんなとき、絵本作家のやなせたかしさんと作曲家のいずみたくさんの童謡を歌わせていただく機会がありました」
それが、あの名曲『手のひらを太陽に』だった。
「やなせ先生は、子どもたちが未来に希望を持って生きていくために作った歌なのに、それを歌っている子が悩みを抱えていてはいけないと、本気で私の将来のことを心配してくれて……。『あなたは大女優になって賞を取ろうとか、お金持ちになろうとか、そういうことではなくて、幸せになることだけを考えて生きなさい』と、アドバイスしてくれました。子どもながらにすごくいい言葉だな〜、と思いました」
そして2回目の出会いは、15歳で出演した『3年B組金八先生』(第1シリーズ)のとき。杉田さんは、妊娠・出産する中学生、浅井雪乃役を演じて、大きな話題になった。
「小山内美江子さんの脚本の中で、妊娠中の雪乃が、鶴見辰吾くん演じる宮沢保と荒川の土手を歩くシーンがあって、そこで『私、絶対に幸せになる!』というセリフを言ったんです。この小山内先生のセリフとやなせ先生からいただいた言葉は、40年たった今でも、私の人生の中で、ずっと生き続けています」
幸せになるーー。このキーワードは、母・美年子さんの介護にも、大きな影響を与えた。介護生活が始まる前年、初めて“世界一幸せな国”ブータン王国を訪問したことも大きかった。
「決して裕福ではないのですが、畑をやる人、家畜の世話をする人、そして自宅用のお酒をつくる人、料理をする人など、それぞれみんなが自分のできる範囲の仕事をしながら助け合っていました。地方の村では、夜になると小さなお子さんからお年寄りまで集まり、楽しく笑いながらご飯を食べている。日本から来た私たちにも、損得なしに無償でおもてなしをしてくれました。皆さん満たされたいい表情をされていて、自分の役割を持って楽しく生きている姿に、こういう幸せもあるのか、と」
人には役割があって、それぞれの役割によって成り立っている。そのことに、あらためて杉田さんは気づかされたという。
介護生活が始まると、「今は役者をやるのが私の役割ではなく、母の介護をしっかりやることが役割」だと、悩むことなく介護に専念できたそうだ。
「女性自身」2021年1月5日・12日合併号 掲載