■将棋界の師弟は無償の愛で結ばれた関係
将棋界ならではの師弟関係を表す言葉として、「恩返し」という表現がある。これは、弟子がプロ入り後の公式戦の対戦で師匠に勝利することを意味する。
「『恩返し』が弟子が師匠に勝つこととして語られるのは、将棋界独特の慣習のように思われていますが、実際にはどの師匠も『そんな恩返しはいらない』と言っています(笑)。多くの師匠が言う“真の恩返し”とは、師匠が勝てなかった相手に弟子が勝ってくれることだと。中田八段は弟子の佐藤が羽生善治から名人位を奪取する姿を、一人自分の部屋で中継を観ていました。自分が追いきれなかった羽生の背中を、愛弟子が捉えようとしている――。立ち上るタバコの煙を見上げながら、夢を見ているようだったと言います。
畠山八段は斎藤八段が四段昇段したときに、『これからは戦う相手になるので、もうアドバイスしてあげられるものはない』と言いました。畠山と斎藤は、これまでに何度か師弟戦を戦っています。師である畠山が、上を目指す弟子の斎藤を本気で倒しにいく姿は、将棋界独特の凄みを感じました。どんなに手塩にかけた弟子でも、プロになれば一人のライバルになる。その勝負に親しみや馴れ合いは一切存在しないことを、二人の姿は伝えていました。将棋界の師弟とは、師と弟子であり、同時にライバルでもあり、無償の愛で結ばれた関係だと思います」
将棋の師弟関係はサラリーマンの「上司」「部下」とは全く違うものだという。
「私は会社員をやってことがないので『上司』と『部下』の関係はあまりわからないのですが(笑)、将棋界の師弟関係は、自分たちに人生を与えた『将棋』への感謝から来ていると感じます。先ほど『恩返し』という言葉がありましたが、師にとって道を継ぐ者を育てることが、将棋界への恩返しなのだと思います。弟子は自分一人の夢を継ぐのではなく、棋界の未来を担うものとして育てられる。弟子たちは、師の想いと指し継がれてきた将棋の定跡を学ぶ中で、自分の一手に宿る歴史を感じ取ってきたのではないでしょうか」
いまやほとんどの棋士が将棋の研究にコンピューターを導入している。師弟関係にも変化が生まれているのだろうか。
「今後の師弟関係については、正直わからないですね。若手棋士の実力が拮抗して競争が激しくなり、10年後、20年後にはベタラン棋士の引退が早くなるとも言われています。また現在の若手は過去の棋譜を並べず、AIでの最新研究に没頭してるようです。これまでの将棋界の慣習や、棋譜を並べるといった勉強法は見られなくなりつつある。人から人に受け継がれる伝統は、薄れていくかもしれません。寂しいことですが、それはすべての文化の継承にも言えることではないでしょうか」
藤井二冠の大活躍で、将棋界に興味を持ち始めている人々が増えている。師弟関係に触れることが、その楽しみの一助になれれば、と野澤氏も言う。
「将棋はわからなくても、棋士たちの生き様を見つめることも観戦の楽しみです。棋士は一般社会では出会えないようなピュアな存在であり、棋士と棋士の友情は子どもの頃からこの世界で生きていくと決めた者たちの、深い絆です。そして、親しい相手であっても、一切の私情を排して勝負に臨んでいく。棋士とはそんな存在です。是非、将棋の世界を覗いてみてください」