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「母の遺品整理を少しずつ始めているんですが、お出かけ用のいちばんいいバッグから、昭和61年のコンサートの大入り袋が出てきました。タンスからはきれいに袋に入ったままの(おニャン子クラブの会員番号の)4番と書かれたTシャツが出てきて……。私のことを大事に思っていてくれた母のあたたかさに、触れるたびに、涙がこぼれそうになります」

 

こう語るのは、3月23日に母・ひで子さん(享年92)を亡くしたタレントの新田恵利さん(53)だ。

 

「母の部屋には、もう大きな介護ベッドもなく、がらんとしていて、毎朝、お線香をあげるたびに喪失感に見舞われてしまいます。結婚後はすぐに二世帯住宅で母と同居しましたから、一人暮らしの期間が短くて……母と密接に暮らしてきたからかもしれませんね」

 

ひで子さんの四十九日法要を機に、愛する母の介護について本誌に語ってくれた。

 

介護生活が始まったのは’14年秋。骨粗しょう症による腰椎の圧迫骨折で入院したのがきっかけだった。

 

「退院するとき、タクシーの脇まで車いすで移動した母に『ママ、乗って』と言っても、立たないんです。足首がぐらぐらで、地に足がつかない状態になっていました」

 

まもなく「要介護4」と認定された。

 

「入院前は普通に歩いていたので、寝たきりの介護生活がいきなり始まったようなものでした。兄と一緒にやりながら介護を覚えていくという感じでした」

 

そんな状況にも、ひで子さんは楽天的だったという。

 

母を看取った新田恵利さん「遺品から4番と書かれたTシャツが」
画像を見る ひで子さんの四十九日法要を機に、愛する母の介護について本誌に語ってくれた

 

「ベッドにあおむけに寝たまま、自転車をこぐように足を動かして、『みてみて恵利ちゃん、なんでこんなに動くのに歩けないんだろうね』という無邪気な母を見ると、涙が出てきました」

 

介護が始まってすぐは、少しでも心地よく過ごしてほしいという思いから、仕事から帰ってくたくたでも、ひで子さんの好きな炊きたてのご飯や煮物を用意したりしていたが……。

 

「それなのに『おなかが痛いから、晩ご飯食べない』って(笑)。がっかりしたし、感情的になって『くそばばあ!』って言ってしまって、後悔したことも。それで、手を抜いたり、“今日は無理”っていう日は母を兄に任せて退避したり、ストレスをためないやり方を覚えていきました」

 

ひで子さんも懸命にリハビリに取り組み、屋内の車いすでの移動、トイレ、立ち上がり、2〜3歩なら歩けるまでに回復した。

 

ただ、認知症も進行していき、車いすのストッパーをかけずに立ち上がり、転倒してしまうことも。2年前には再び骨折し、完全に寝たきり状態になってしまった。

 

まだ心の整理はついていないが、6年半に及ぶ介護生活には、苦労以上に母との幸せな時間があった。

 

「腹の立つこともありましたが、やっぱり楽天的で、いつも私を気遣ってくれた母に、逆に支えられたりしました。私には子どもがいないので誰が介護して看取ってくれるのかわかりませんが、私も母のように周囲への感謝を持って逝きたいですね」

 

「女性自身」2021年5月25日号 掲載

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