■歌番組が減る中、歌手としては鳴かず飛ばず……
芸能界での仕事が増えていくなか、中学を卒業。高校はアイドルが多く通う堀越学園に進学した。
「ちょうどそれくらいのタイミングで、突然、事務所の方から『歌、やるよ』と。それまで歌のレッスンはしていなかったので“え!?”って、びっくりして。しかも杏里さんの“妹分”としてのデビュー。『CAT’S EYE』や『悲しみがとまらない』などのヒット曲はもちろん、『砂浜』というバラード曲が、歌詞もメロディラインもとにかく大好きで、いまでもカラオケで歌ったりします。作詞・作曲を担当したかおる(伊藤薫)さんには、私の曲もお願いしたんですよ」
レコード制作には、杏里の制作陣も名を連ねたという。なかでも感激したのは、筒美京平さんが直々にレッスンしてくれたこと。
「当時すでに大御所の先生だったので、最初は緊張したんですが、すごく優しい先生でした。『君は声に特徴がある。もっとキョンキョンみたいな歌い方を心がけて練習するといいよ。“この声って、この人だよね”という“顔の見える”歌い方をしなきゃ』とアドバイスしてくださったのを、よく覚えています」
歌手デビュー後は、3カ月に1枚のペースで新譜を発表し、そのたびに衣装を詰めたトランクを担いで、全国へ営業に出かけた。
「各地のラジオ局や、レコード店を回ってプロモーションをするのですが、お店の前やデパートの屋上で歌うことで、けっこう本番力も養われました。2番の歌詞を忘れてしまい、とっさに1番を歌い続けたり、ラララ、ルラルラで乗り切ったことも。いまだに当時の困ってしまう夢を見て、びっくりして起きてしまうことがあるんです」
田中さんが歌手デビューした’88年ごろは、すでに歌番組が減り、バラエティ番組に活路を見いだすアイドル=バラドルという新しいジャンルが生まれた時代。
「クイズ番組で正解しないと歌えなかったり、水泳大会ではキャーって水を怖がっているアイドルを尻目に“よっしゃー!”と誰よりも早く泳ぎきって、賞品のスクーターやダイヤのネックレスをもらったりしました」
必死に努力はしたが「歌手としては鳴かず飛ばずでした」という田中さん。だが、それでもテレビの世界で頑張り続けたからこそ、当時、飛ぶ鳥を落とす勢いだったフジテレビの、月9ドラマ『愛しあってるかい!』(’89年)への出演も果たせた。
「陣内(孝則)さん、柳葉(敏郎)さん、そしてキョンキョン(小泉今日子)と、豪華な方々と共演できたことは、私にとって大転機。視聴率もすごくよくて、1,000円が入った大入り袋が、スタッフの方を含めた全員に、配られました。カラオケに行くと、エンディング曲だったキョンキョンの『学園天国』(’89年)を、友達に勝手に入れられたりしましたね(笑)」
昼間は堀越高校の、夕方からは学園ドラマの生徒として――。
「一日中、制服を着ていましたね。撮影の合間に、ADさんに期末テストの勉強を教えてもらったり、プロデューサーさんに『修学旅行、行きたいだろ』って京都に修学旅行に行く回を作ってもらったり、楽しい思い出ばかりです。陣内さんはホームパーティに招いてくれたうえ、『律子は俺の生徒だ』って紹介してくれました」
歌の現場でも、ドラマの現場でも、勢いを感じた’80年代。
「私たち高校生も大人のように扱ってくれて、すごい熱量で一つの作品を作り上げました。この経験は間違いなく、その後の人生の糧となっています」