鈴木蘭々 化粧品会社の社長をしながら歌手活動を再開した47歳の今
画像を見る ポンキッキーズ出演が決まった19歳の頃の鈴木蘭々

 

■歌ウマな友達とカラオケボックスでドリカムを熱唱

 

リップクリームやファストフードのCMの仕事が決まり、高校は芸能活動に理解ある学校を選択。

 

「午前で終わる学校だったので、午後はカラオケボックスに行っていました」

 

カラオケでは’80年代から’90年代にかけてのドリカムの名曲を、仲間内で歌い合うのが定番だった。

 

「クラスには東芝EMI(当時)から歌手デビューしていたコや、B’zやZARDが所属するレコード会社でデビューを控えているコもいて、歌に自信がある人ばかり。だから難度の高いドリカムの曲を歌いたがったんでしょうね。カラオケでは同じ曲を避けたりするものですが、『未来予想図II』(’89年)は本当にはやっていて、全員がそれぞれ歌っていました」

 

ドリカムの代表曲『決戦は金曜日』(’92年)も忘れられない1曲。

 

「自分の中でツボっちゃって。イントロから盛り上がるし、曲の最後に『ライララ~』と派手なフェイクが入る。それをひたすらマネして歌っていました」

 

歌手になりたい気持ちが強く、歌詞も書きためていたという。

 

「ドリカムの曲は、頭の中で情景が浮かび上がる歌詞で、まるで映画を見ているよう。でも、私の場合は疑問形が多くて『人間はなぜ、正直になったり噓をついたり、バランスが悪いのか?』とか。今振り返ると恥ずかしい詞をノートに書き連ねていました」

 

同じように歌手を目指す同級生に相談したこともあった。

 

「それで紹介してくれた先生に、練習曲としてすすめられたのが『銀河への船』(’91年)。“この曲を歌えるようになる”というのを目標にしていました。私の歌の原点になった曲です」

 

女優業やバラエティ番組で活躍の場を広げ、初めての帯番組『ポンキッキーズ』(第1期、’93~’01年・フジテレビ系)では、安室奈美恵とユニット「シスターラビッツ」を結成した。

 

「よく『安室ちゃんと遊びに行きましたか?』って聞かれますが、お互い、スケジュールの空きがないくらいに忙しかったんです」

 

こうした努力が実り、’95年、『泣かないぞェ』で念願の歌手デビューを果たす。8枚目のシングルとなった『ポンキッキーズ』エンディング曲の『キミとボク』(’98年)は、今でも玄人ウケする名曲と言われている。

 

’90年代後半にはアメリカ留学も経験。’14年には基礎化粧品ブランドを立ち上げ、実業家に軸足を置いた。

 

「’18年、『キミとボク』が好きだったというミュージシャンからお誘いを受け、バースデーライブをすることになりました。作詞にも挑戦しましたが、思い浮かぶことは若いころに書いていた“疑問形”で、あまり変化はないような(笑)」

 

コロナ禍で中断した時期があったものの、今年はバースデーライブを無事に開催することができた。

 

「歌の仕事を再開するとは予想していませんでしたが、人に喜んでもらうことがモチベーションなので、今では“次回は、どんなライブにしようか”と考えるのが楽しみ。来年はバラード中心にしようかな」

 

約20年ぶりの歌手活動の原点には、カラオケや歌手になるためのレッスンで歌ったドリカムの曲があったのだ。

 

【PROFILE】

鈴木蘭々

’75年、東京都生まれ。第1回ミスチャンピオン・準グランプリ獲得後、バラエティ番組やCMで活躍。’94年より『ポンキッキーズ』にレギュラー出演し、’96年にはCM女王として12社のCMに出演した。’14年に自身の会社を設立し、基礎化粧品のプロデュースを始める

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