■苦手の色つけを始めた!
「富士山に色をつけていきませんか?」と大倉さんが、16色セットのオイルパステルを置いた。その誘いに、蛭子さんは、迷うことなくピンク色のパステルに手を伸ばした。
「山なら青か緑じゃないですか」と、私が口出ししようとしたとき、それを遮るように大倉さんが「いいですね、赤富士ならぬ桃富士!」と声をかけた。
「色を自分で選ぶだけでも脳が活性化するんですよ」と小さな声で付け足した。
蛭子さんが52年前に見た日本一の山の記憶は、いま桃色となって心に残っているのかもしれない。そっくりに描かなくてもいい。心のおもむくままに描きたいものを、塗りたい色で仕上げていくことが臨床美術の重要なポイントだ。
「色をつけるのは面倒くさい」が口癖だった蛭子さんがいま、夢中になって富士山を桃色に輝かせていく。
安心して没頭できる環境作り、心を揺り動かすコミュニケーションによって、蛭子さんはスイッチが入ったように創作に取り組んでいる。大倉さんは、臨床美術士は伴走者だと話していた。
「ヒモを引いて誘導するのではなく、その人が持っている感性を引き出すことです」
認知症で記憶は失われるかもしれないけれど感情は残る。その人らしさに寄り添い続けることを忘れてはいけないようだ。