「“まだ15年”だと思います」中村雅俊 故郷の女川を“大人の修学旅行”で支援…被災地に足を運び続ける理由
画像を見る 中村雅俊(写真:本誌写真部)

 

徐々に震災前の日常を取り戻しているようにも見えるが、宮城県を車で移動していると、まだ復興が手つかずの地区も目に入り、被災地であることを突きつけられるという。

 

「復興は人口の多い場所からやっているため、どうしても格差が生まれるのでしょう。人口の少ない地区に行けば、いまだに倒壊した家がそのまま残っていたり、歪んだままの道路を見ることも。女川は町の7割が壊滅し、人口のじつに1割近い死者を出しました。人々に明るい表情と笑い声が戻ってきてはいますが、大事な人を亡くした人は少なくありません。心の傷は、そう簡単に癒えるものではないはずです」

 

2011年3月11日、地震発生時刻には、東京でドラマの撮影をしていたという。

 

「海の町・女川に生まれ育ったので、東北地方で大きな地震があったと情報が入った瞬間、まず心配したのが津波でした」

 

悪い予感は的中。東北の沿岸部は、深刻な津波被害に襲われた。

 

「撮影の仕事を終えて、女川へ行けたのは4月に入ってからでした。地元の人たちから『いまごろかよー、遅えど!』って怒鳴られたっけ(笑)。本来ならお見舞いに人が訪れたら『ありがとう』と言われるところですが、地元出身のオレへの愛情表現ですね」

 

生まれ育った女川の町は津波に流され、あっという間に瓦礫の山となった。現地では、「空襲に遭ったら、こんな感じになるんだろうか」という声も耳に入った。

 

自分にできることは、ギター一本を携えて避難所に赴き、失意にある被災者の苦痛を一瞬でも和らげることだけだった。故郷・女川に対する愛情を込めて歌った。

 

「学生時代に作った『私の町』を歌いました。ただひたすら、オレが育った女川の景色を描いた曲です」

 

避難していた人たちは、津波に流されて失った町の風景を思い出したのだろう。中村の歌に聴き入り、涙を流した。

 

「稚拙な歌なんだけど、デビュー後にヒットした『ふれあい』よりも反応がよかった。改めて歌の持つパワーを感じました」

 

その後も、義援金を集め、トレーラーハウスを改造して子供たちのための簡易的な図書館として利用できたり、映画やアニメを楽しめる「ふれあいオレンジハウス」を寄贈するなど、復興支援に尽力。

 

大きな変化を感じたのは、女川駅の駅舎が完成した2015年3月のことだと振り返る。

 

「完成前から、駅から海に続く両サイドに商店街ができあがっていたんです。みんなゼロから立ち上がって、活気が出てきた。駅舎完成時のフェスティバルでは、女川以外からも人が大勢集まってね。

 

もともと女川は赤字路線の終着駅。津波で流されて、このまま廃線になってしまう可能性もあったはずなのに、見事に復活したんです。“ここからよみがえっていくんだな”と、女川の人たちの底力に胸が熱くなりました」

 

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