■アルコール依存症が原因で夫婦関係が悪化
莫大な改修費を生むにいたった三笠宮家内の愛憎劇。その歴史は20年以上に及ぶ。“ヒゲの殿下”と呼ばれ、国民からも人気があった寬仁さまが、麻生太郎元首相の妹・信子さまと結婚されたのは’80年のこと。
彬子さまと瑶子さまという二人のお子さまにも恵まれ、幸せな家庭を築かれたのだが、’91年に寬仁さまが食道がんに……。
食事を6回に分けて召し上がらなければならなくなったが、信子さまは献身的に食事作りに励まれたという。当時、信子さまは本誌「シリーズ人間」に登場され、看病の日々について、次のように語られていた。
《宮さまが“うまい”とおっしゃってくださるひと言がいちばん嬉しゅうございました》
だが何度もがんを発症されるなか、寬仁さまの酒量は増え続け、夫婦の距離はどんどん開いていった。関係悪化の原因についてはさまざまな証言があるが、寬仁さまと長年の親交があった男性は、本誌の取材にこう語っていた。
「お二人の関係が、こじれてしまったのはアルコール依存症の治療が原因だったのです。
その当時は、まだ病名を公表していませんでした。信子さまは、がんの検査だと寬仁さまに偽って、入院していただいたようですが、実際は依存症治療のための入院であることを知った寬仁さまが激怒されたのです」
夫婦ゲンカが絶えなくなり、信子さまは’04年から別居生活を始められたが、このご決断は、彬子さま、瑶子さまとの亀裂を生じさせることになった。
彬子さまはのちに『文藝春秋』(’15年7月号)に掲載された手記で、母と絶縁関係にあることを明かされた。
《最近ある雑誌にも書かれていたけれど、寬仁親王家は長い間一族の中で孤立していた。その要因であったのが、長年に亙(わた)る父と母との確執であり、それは父の死後も続いていた。母は父の生前である十年ほど前から病気療養という理由で私たちとは別居され、その間、皇族としての公務は休まれていた。私自身も十年以上きちんと母と話をすることができていない》
“十年以上”とは、信子さまが軽井沢でのご療養を始められた時期と一致する。前出の宮内庁関係者によれば、
「’22年に彬子さま監修の寬仁さまの遺稿集『ひげの殿下日記』(小学館)が出版されたことからも明らかなように、お嬢さま方は心の底から寬仁さまを敬愛されています。お二方からすれば、“病気のお父さまを置いて、家を出てしまうなんて許せない”というお気持ちになったのでしょう。
寬仁さまは’12年6月6日、千代田区の杏雲堂病院で薨去。危篤状態の寬仁さまに会うため、信子さまは何日もタクシーで病院に通われたのですが、“ご家族の意向”により、ご夫婦の対面は最後までかないませんでした。
ご葬儀も喪主は彬子さまが務められ、信子さまは参列されていません。結果的に看取ることも、葬儀への参列もできなかった信子さまは、三笠宮家への態度をより硬化されていったのです」
別居から20年、寬仁さまの薨去から12年……、母娘の確執は“もはや修復は不可能”とささやかれるほどになっている。
「“寬仁親王家の消滅”もさらに確執を深める原因となってしまいました。寬仁さまのご両親である三笠宮崇仁さまと百合子さまの後押しもあり、彬子さまが親王家の当主の座に就かれることになったのですが、信子さまが絶対に認めようとされず、実現しなかったのです。
彬子さまにとってお父さまのお名前を冠した宮家が、“母の反対により”消滅してしまったことは痛恨だったことでしょう。また’13年に信子さまが公務に復帰された際、“姑”の百合子さまは対話を求める手紙やファクスを送ったそうですが、信子さまは応じようとしなかったのです」(前出・宮内庁関係者)