■彬子さまは信子さまのことを“母”とは呼ばず…
だがこの対立は夫婦間だけにとどまらなかった。ある宮内庁関係者によれば、
「お嬢さま方は心の底から寬仁さまを敬愛されていました。お二方からすれば、“病気のお父さまを置いて家を出てしまうなんて許せない”という気持ちになられたのでしょう。
’12年、危篤状態になられた寬仁さまに会うため、信子さまは何日も病院に通われたのですが、“ご家族の意向”により、ご夫婦の対面は最後まで叶いませんでした。信子さまはこのことについては、百合子さまのご意思も介在されていたと考えられているようです。
三笠宮ご夫妻のご意向もあり、斂葬の儀の喪主は彬子さまが務められることになり、信子さまは葬儀にも参列されませんでした」
寬仁さま薨去の翌年、信子さまは公務に復帰された。
「当時、百合子さまが対話を求める手紙やファクスを送られたそうですが、信子さまは頑なに応じられなかったのです」(前出・宮内庁関係者)
それから10年以上たつが、母娘の関係は凍てついたままだという。瑶子さまの知人はこう語る。
「瑶子さまのお口からは“母”や“母親”という言葉は聞いたことがありません。信子さまのことは“あの人”と呼ばれているのです。皇室の方々はけっして多くはなく、69歳の信子さまもご公務に携わられていますが、瑶子さまは信子さまが公の場に立たれること自体を苦々しく思われているようです。また瑶子さまは、信子さまが職員を使って、ご自身や彬子さまの交友関係などを調べていると考えていて、そのことについても不満を募らせていらっしゃるのです」
信子さまと彬子さま、瑶子さまがいっしょに行事などに臨まれることもあるのだが……。
「信子さまとお子さま方が会話をされているご様子はありません。10月30日、秋の園遊会で和装のお三方が並ばれていましたが、皆さまが厳しいご表情で、視線を合わせられることもありませんでした。なぜか彬子さまと瑶子さまもお話しされていなかったのが印象的でした」(前出・皇室担当記者)
実は、この10年ほどで姉妹にも亀裂が生じているという。三笠宮家の事情に詳しい関係者は本誌に次のように証言する。
「瑶子さまは、お姉さまに対しても複雑な感情を抱かれているようです。あるとき、『(姉は)家を守らないで、京都に住んでいるからね』と、ポツリともらされていました。確かに彬子さまは、大学の講義や自ら設立された心游舎の活動などのために、京都に滞在されていることも多いのです。
瑶子さまとしては、高齢の祖母・百合子さまのおそばにいて、実質的に三笠宮家を守っているのは自分なのに……、という思いをお持ちだったのでしょう。天皇陛下が即位されたとき、百合子さまはブローチを瑶子さまに譲られたと聞いています。それは大正天皇の后・貞明皇后から百合子さまがいただいたという品で、瑶子さまは『お祖母さまは、私をいちばん信頼してくださっている』と、感激されていたそうです。
そんなお祖母さまもご体調を崩され、三笠宮家の将来も不透明なまま……、誰にも相談できない鬱屈した気持ちもあり、髪を金色に染められたのでしょうか」
男系男子による継承が慣習となっている皇室で、宮家当主が薨去したのち、親王妃が当主になることはあっても、娘が当主になった前例はない。