彬子さま 弔問に訪れた母・信子さまを“玄関払い”…溝を深めた寛仁さま薨去後の「FAX無視事件」
画像を見る 2024年6月、桂宮さまの式年祭の祭主を務めた彬子さま。近年の三笠宮家の祭事は、彬子さまが取り仕切られてきた

 

■“信子さま包囲網”が徐々に形成されて……

 

彬子さまと妹の瑶子さまは、なぜ信子さまが百合子さまと対面することを許されなかったのか。寬仁さまが薨去されてから3年後、月刊誌に寄せた彬子さまの手記に、複雑に絡み合った対立の発端を窺うことができる。

 

《寬仁親王家は長い間一族の中で孤立していた。その要因であったのが、長年に亙(わた)る父と母との確執であり、それは父の死後も続いていた》(『文藝春秋』2015年7月号)

 

豪放磊落な言動で、“ヒゲの殿下”と国民に親しまれた寬仁さまは、1980年に信子さまと結婚。彬子さま、瑶子さまがお生まれになり、信子さまは家庭料理などのレシピ本を出版されるなど、円満で温かな家庭を築かれているとされていた。

 

しかし、信子さまが寬仁親王邸(現・三笠宮東邸)を“病気療養”という理由で出られたのは2004年のことだった。前出の皇室担当記者は、

 

「この“家出”は、寬仁さまとの夫婦仲が極度に悪化したためでした。寬仁さまのアルコール依存症の治療を巡る対立や、殿下による家庭内暴力が原因だったと報じられてきました。ですがお嬢さま方は、寬仁さまを心底敬愛されていましたし、“病気の父を置いて家を出るのは許せない”というお気持ちを抱かれていたと伺っています。

 

そして寬仁さまが危篤状態になられた際、信子さまはお見舞いのためにたびたび病院に足を運ばれましたが、最後までご夫妻の対面はかないませんでした。信子さまはこの対応から、お嬢さま方のほか、義母にあたる百合子さまら親族への不信感を募らせていったそうです」

 

2012年に行われた寬仁さまの斂葬の儀の喪主も彬子さまが務め、信子さまは諸行事に一切出席されることはなかった。この出来事から、信子さまとご親族の“溝”は、さらに深淵さを増していく。

 

「寬仁さまが薨去された翌年、信子さまはご公務に復帰されていますが、それにあたって三笠宮ご夫妻が対話を求める手紙やファクスを送られても、信子さまは無視され続けたのです。

 

こうした信子さまの頑ななご姿勢に対して、百合子さまや彬子さまと瑶子さま、百合子さまの長女・近衞甯子さん、次女の千容子さんも加わり、さながら“包囲網”が形成されてきたのです。

 

また昨今の彬子さまは、NHKの密着取材に応じられるなど、積極的にメディアに登場されています。しかし出演にあたっては、“母の写真や映像はいっさい使わないでほしい”と必ず各社に要望されているとも聞きます」(前出・皇室担当記者)

 

孤立を深める信子さまはしだいに、皇后の雅子さまへある“シグナル”を送られるように……。信子さまは2022年の歌会始で、

 

《成人を姫宮むかへ通学にかよふ車窓の姿まぶしむ》

 

と、愛子さまの成年を祝うお歌を詠まれたのだ。前出の宮内庁関係者はこう続ける。

 

「歌の題材が数多あるなかで、天皇家とはいえ他家の方について詠まれたことは、宮内庁内でも驚きをもって受け止められたことは事実です。同じ民間から皇室に入った女性として、信子さまはご自身の立場への理解を、雅子さまへ訴えたいお気持ちもあるのではという見方もありました」

 

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