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「年を重ね曲も成長していった」と語るKiroroの玉城千春(左)と金城綾乃=宜野湾市内

 

読谷村出身の玉城千春と金城綾乃による2人組ユニットKiroro(キロロ)がメジャーデビューして20年を迎えた。「キロロ」は、「人が踏み固めた広い道」「強い」などの意味があるアイヌ語をもとに名付けられた。その名前の通りに2人の強い思いが歌詞に詰まっている。玉城の透き通った伸びやかな歌声、金城のしっとりと奏でるピアノは多くの人をとりこにしてきた。数多くのヒット曲を生んだ2人に、これまでの歩みと今後の展望を聞いた。

 

聞き手・金城実倫

写真・上原修

 

―どんな20年だったか。

 

玉城千春 いろいろあった20年だった。東京に出てから、たくさんの人にKiroroの名前を覚えてもらえた。私が喉を痛めたことなど、お互いにいろいろなことがあったが、それぞれ乗り越えた。

 

金城綾乃 楽器を届けにキルギスへ行く活動など、音楽以外も2人でたくさんの経験をしてきた。素晴らしい20年だった。

 

―2人の出会いやユニットを結成したきっかけは。

 

金城 中学校の時に通っていた学習塾だった。千春は「未来へ」など自分で作った歌を塾の先生や塾生の前に出て大きな声で披露していた。「すごく元気で活発な子だな」って思った。

 

玉城 綾(金城)はお嬢さまのような子だと思った。本がとても好きで物静かだった。でも話していくうちに、綾は人を笑顔にさせてくれる人だなと感じた。

 

金城 初めてユニットを組んだのは高校2年の時。クラスの同級生に向けて千春が作った「僕らはヒーロー」で伴奏を引き受けた。

 

玉城 綾がエレクトーンを弾いている姿を見て、組みたいと思っていた。

 

―「未来へ」「長い間」など学生の時から作詞作曲を手掛けている。

 

金城 千春はテストの問題用紙の裏にぎっしりと歌詞を書いていた。

 

玉城 思い付いたらすぐ何かに書き込んでいた。曲は詩を読みながらアカペラで歌い、テープに録音していた。

 

金城 私は楽譜が読めなかったので、千春の声の入ったテープを聴きながら「ドレミファソ」と片仮名で伴奏を付けていた。

 

―インディーズの「長い間/青のじゅもん」がヒットした。

 

玉城 卒業前、お互いバラバラになるから思い出にCDを作ろうと北谷町のスタジオで録音した。そしたらスタジオの方が歌を気に入ってくれて、インディーズで発売した。その後ラジオや有線で流れCDが売れていった。

 

―「未来へ」「Best Friend」など次々にヒットしていった時はどんな気持ちだったか。

 

玉城 周囲の環境に追い付いていなかった。沖縄の流れと東京の流れは全然違っていて、今でも追い付いていない感じがする。

 

金城 デビューしてからは自分たちの曲がこんなにも速く多くの人に浸透するとは思わなかった。

 

玉城 ファンや他のアーティスト、スタッフなど出会う人の数も多く、いろんな場所に行かせてもらった。気付いたらテレビにも出演していて「自分たち、ここにいていいのかな」と戸惑うこともあった。

 

―2人それぞれ作詞作曲を手掛けているが、音楽の方向性に違いが見えたりしなかったのか。

 

玉城 綾の曲も私の曲もお互い尊重し合って曲を作っている。ぎくしゃくしたことはなかった。

 

金城 曲作りで自分がいいと思う点が千春とほぼ一緒。あるフレーズを提案すると「それいいね」と言ってもらって、2人で盛り上がりながら作っている。

 

―デビュー当時と比べて曲作りに変化はあるか。

 

金城 私たちの曲は自分が経験してきたことを歌にして伝えている。「未来へ」「長い間」の時は学生だった。その後結婚して子どもが生まれて母親になった。曲も同じように年を重ねて成長していると思う。

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