孤高の女性ドラマー、シシド・カフカ。その美しくスレンダーなルックスからは想像もつかない——この音を、この人が出しているなんて。彼女のドラミングは熱っぽく、そして気高い。9月19日にシングル「愛する覚悟」でメジャーデビューを果たすカフカは作詞、ドラム、ボーカルの三役をこなしている。
18歳で女性パンクバンドの草分け的存在である「THE
NEWS」の三代目ドラマーとして活動を開始し、その後もパンタ(頭脳警察)やダイアモンド☆ユカイといった大御所のサポートを数多く務めた。その豊富な経験に裏打ちされたテクニック、そしてドラマーとしてのスピリットはまさに”本物”。
5月、配信デビュー曲「デイドリームライダー」のプロモーションビデオがYouTubeにアップされるや、多数のメディアからオファーが殺到。2012年下半期はシシド・カフカ旋風が巻き起こること必至だ。
そんなシシド・カフカがクリエイターやアーティストなど、時代の最先端を走る女性たちと共に、作り手として、女性として、過去・現在・未来を語り尽くす対談企画「アイノ・カンジカタ」がスタートする。
第1回目のゲストは青山に位置するセレクトショップ「soup
of he(r)art スープ・オブ・ハート」のディレクターで、アルゼンチンのブランド「Tramando(トラマンド)」の日本におけるプロデュースを手がける竹本祐三子さん。2人の出会いはまるで何かに導かれたかのように奇跡的だったという。
竹本祐三子(以下・竹本)「ちょうど、Tramandoを日本でどう紹介しようかと考えていた時期に、テレビの前で息子のオムツを替えていたら、ZIPでカフカさんの映像が流れたんです。その瞬間に『ハッ!なんて素敵な人!』と思ってすぐにネットで調べて、ホームページの『メッセージはこちら』というところからメールを送ったんです」
シシド・カフカ(以下カフカ)「バイト中にマネージャーが何回も電話してきて。休憩時間に電話に出たら『Tramando、好きだったよね。プロデューサーさんからうちの服を着てくれないかって連絡来たよ』って。しばらくは何も理解できませんでした。そのまま集合して、お話して、即決でしたね」
竹本が見出す前から、カフカはTramandoに惹かれていた。お店に出向き、ステージ衣裳としての貸し出しを頼んでいたほどだったのだ。
竹本「見た目、考え方の両方からTramandoをかっこよく見せてくれる人だと直感して、鳥肌が立って、頭から湯気が出ました(笑)」
カフカ「私も同じ状態でした(笑)」
メキシコ生まれのカフカは、アルゼンチンで中学時代を過ごし、ドラムを始めた。そんなバックグラウンドに呼応するかのようにアルゼンチンのトップブランドであるTramandoとの出会いが舞い込んだ。これは奇跡だ、と2人は口を揃える。
竹本「アルゼンチンって、日本からするとフランスのパリみたいにブランド化していない街じゃないですか。そんな中で『私はアルゼンチンで育ちました』って言っている人ってカフカさんぐらいしかいないと思うんです」
カフカ「確かに、南米とか、スペイン語圏にゆかりのある人ってあんまり聞かないですよね」
竹本「だからZIPで見たときにメキシコ生まれ、アルゼンチン育ちっていう経歴を聞いて、もうこれは運命だなと」
カフカ「見つけてくれて本当にありがとうございます」
“転々者”としてのシンクロニシティ
2人の間にはアルゼンチンというキーワードが介在する。カフカのクリエイションにアルゼンチンの風土はどのような影響を及ぼしているのだろうか。
カフカ「実は……本当にもったいないことだと思うんですけど、アルゼンチンの知識も何もなく日本に帰りたいと思いながら過ごしていたんですよね。
エビータさんのお墓に行ったりとか
はしましたけど、両親が海外好きということもあり、小さい頃からいろいろな国に行っていたので、特別変わった目で見ることもなく……」
竹本「今のお話を聞いて、ご両親のカフカさんの育て方と、アルゼンチンという国の育ち方ってリンクしてるんじゃないかなって思いました。私がアルゼンチンという国を好きな理由って、まだ国としての歴史は浅いけれど、いろいろな国から集まった移民の人たちが恋をしてできた国だっていうところなんです。他の国は人種や文化が相交わっているようでそうじゃない場合が多いんですよね。おばあちゃんがスペインで、おじいちゃんがイタリア人で、みたいな、文化がケンカするんじゃなくて恋をして街を作り上げている感じ」
カフカ「うん、うん」
竹本「ご両親のカフカさんの育て方がそれに通じていると思うんです。小さい頃からいろいろな国に連れて行って、いいところを取り入れながら大きくなっていくっていう。初めてお会いしたときから、(Tramandoのデザイナーである)マルティンに感じたように、”愛がいっぱいで出来ている人”だな、って思っていました。あまり思い出にはないかもしれませんが、ご両親を介してアルゼンチンはカフカさんの中に入っているのかもしれませんね」
カフカ「いろいろな国を渡り歩いて、どこが自分の国かわからないっていう人が日本にたどり着いて、カフェで話す機会があったんですけど、彼女たちは自分たちを”転々者”って呼ぶことにしたって言うんです。店長が私を指して『じゃあこの子も転々者だよ』と話したら『うん、入ってきた瞬間にわかった。私たちと同じにおいがする』って言われたことがあって。私は日本人のつもりでいたけれど、知らぬうちにすり込まれている部分があるのかなと思いましたね」
竹本「私も父の仕事の都合でいろいろな地方や国に行っていたから、出身を訊かれると答えられないんです。生まれた瞬間なのか、しばらく住んだところなのかわからなくて。嫌いな質問でしたね」
カフカ「あるある(笑)。どこで生まれたんですか?」
竹本「生まれた瞬間は名古屋でその後すぐ千葉に引っ越して、東京に行って、5歳から9歳までアメリカに住んだあと、東京に帰ってきて。高校を卒業した後ジュエリーのデザイナーになりたかったのと、たまたま好きなデザイナーがスペインの方だったので、スペイン語をラジオ講座で覚えて1人でスペインに行きました」
カフカ「どの程度喋れるところまで勉強したんですか」
竹本「生活に不自由がない程度まで。観光で行くつもりではなかったし、自分の思ったことをきちんと話せないと失礼かなと思ったので。スペインで3年半修行した後、もっとマニアックな方向に進みたいと思ってドイツへ行って。日本に帰って伝統技術を学んで、その学校でそのまま講師として3年働きました」
カフカ「転々としてますね」
その後、竹本はH.P.FRANCEに入社し、ジュエリーデザイナーやブランドのプロデュースを手がけることになる。現在は南米事業部アルゼンチン・プロジェクトマネージャーという肩書を持つが、そもそも南米事業がスタートしたきっかけは、同社の社長がTramandoのデザイナー、マルティン・チュルバに出会ったことだった。
竹本「社長がNYでマーティンに出会ってもう惚れ込んでしまって。こんな素敵なものを作るあなたのお母さんに会いたいし、育ったところも見てみたいと言って、3日後には家族を連れてアルゼンチンに行っちゃったんですよ」
カフカ「家族ごと!」
竹本「『こんな出会いがあった』って社長が全社配信したんです。この情熱って、私がスペインに行ったときの高揚感と似ているなと思って社長に連絡を取ったら、私がスペイン語が話せるということをどこからか聞いて、私もアルゼンチンに行ってお手伝いすることになったんです。私は初めてだったのに、スペイン語ができるっていうだけで社長が『ここ行きたいんだけどどうやって行ったらいい?』とか訊いてきて(笑)」
カフカ「あはは」
竹本「空港からそんなノリだったので、もう勢いで行くしかないやと思って覚悟を決めたら、街の人がみんなフレンドリーで。アルゼンチンってすごく親日な国じゃないですか。タクシーの運転手さんにしても日本人好きよ、って言ってくれるし、居心地もよい上に、『いろんな人が恋をしてできた国なんだよ』って教えてもらって私も恋しちゃいました」
カフカ「私がアルゼンチンにいた頃はやはり子どもだったので、ちょっといじめられたりもしたし、そういう印象はなかったですね」
竹本「私がスペインに行ったときの心境と似ているのかな。あくまで仮住まい的な感覚が強くて。でも今度、マルティンと何かすごいことができる、っていう時に(アルゼンチンに)行くと、きっと違うんじゃないかな?」
カフカ「違う見方ができそう、っていう気はします。竹本さんのお話を聞いていると、そういう目でアルゼンチンを見てみたいですよね」
たけもと・ゆみこ
H.P.FRANCE AMERICAS本部 南米事業部アルゼンチン・プロジェクトマネージャー。
H.P.FRANCE BIJOUX WINDOW GALLERYのディレクション、銀座・hpgrpビルの企画などを手掛けた後、Americas本部 南米事業部にてアルゼンチン・プロジェクトを担当。ブランドの育成と同時に、デザインを通したアルゼンチンのプロモーション活動に取り組んでいる。昨年出産し、4月に復職したワーキング・マザー。