「母と交わした“最後の会話”は、仕事の話だったんです。『あの人に合わないといけないし、打ち合わせもあるし、やることはいっぱいあるのよ!』と……。母はまだまだ仕事ができるって思っていましたし、私もそう思っていました。母も含めて家族、仕事関係者全員が、その日に亡くなるなんて思っていませんでした」
田中聖理さん(33)は今年3月19日に亡くなったカリスマ美容家・田中宥久子さん(享年67)の二女。逝去から2カ月経った5月16日には、都内で「田中宥久子お別れの会」が開かれる。20代半ばから約10年、個人事務所のマネージャーとして、母の仕事をサポート、葬儀では喪主を務めた。長女はすでに嫁ぎ、聖理さんも独立していたが、宥久子さんが肺がん宣告を受けてからの半年は、母と同居して身の回りの世話をしていた。
宥久子さんが体調に異変を感じたのは昨年6月からだったという。
「なんか『変な咳が出る』『身体の芯に力が入らない』ってずっと言っていました。あと妙な汗が出るのも気にしていて、レントゲンを撮ったら肺にがんが見つかって…。3年ほど前に一度、胸のレントゲンを撮ったんですよ。そのときは何も見つからなかったのですが、1年検査していないだけですでにけっこう大きなものができていました。ちょっと特殊ながんだったので、抗がん剤の効きがあまり良くなくて。放射線はできませんでした」
最後まで美容家として生き抜く――それが彼女の矜持だった。聖理さんは言う。
「最期は多少、むくみがでちゃうこともあったので、セルフ造顔をやっていました。むくみがとれると、母は『これが造顔の効果なのよ。やっぱり、これってすごいことなのよ!』と、喜んでいました(笑)。母は、顔を美しくするのは礼儀だって言うんです。『顔は玄関。玄関をきれいにするのは、礼儀でしょ』って。礼儀には、とても厳しい人でしたから。娘の私がいちばん言われていましたよ。『なんでなんにもやっていないの?』って(苦笑)」
美容家の祖母の薫陶を受けて育った宥久子さんは、18歳で山野美容学校に入学。卒業後は、フリーランスのヘア&メークアーティストとして活動をはじめた。結婚後、一旦は仕事をやめ、専業主婦に。30歳で長女、33歳のとき聖理さんを出産したが聖理さんが小学校3年生のとき離婚。仕事に戻っている。
「父は昭和の人ですから『女性は家にいて当たり前、家を守るのは女の仕事』という考えの人です。でも、それは父だけではなく、あの時代には普通のこと。ただ、母は仕事をする人だったんですね。小さいころは、そんな母がわからず、両親の離婚に寂しい思いもありましたが、大人になって、いろんなことを感じるようになったとき、母はやっぱり家にいる人じゃない、と思いました」
がん闘病中に、聖理さんは宥久子さんの懐の深さを目の当たりにする。
「実は病気が発覚してから、父と母は時々会うようになりました。離婚してからは、娘を介してお互いの状況は知ってはいましたが、2人は会ってはいません。でも、病気を機に会うようになって、家族が一緒に食事に行ったりもしました。不思議な話なんですけど、もう夫婦ではないのに、ふたりは自然に『お父さん』『お母さん』と呼び合っていて…。逆に娘たちがそれについていけなくて。だって、そういうフレーズで呼び合うのって何十年ぶりですから。とても違和感がありました(笑)」
元夫は臨終には間に合わなかったが、娘2人と孫に手を握られ、宥久子さんは家族の温もりのある優しい空気のなかで、旅立った。
「お葬式は近親者のみでしましたが、会いに来てくださった方もいました。死に化粧は姉がしました。髪もきれいに残りました。『顔も本当に変わらず、きれいで』って皆さん、おっしゃってくださって。きれいな顔のままで安心しました」
著書『生きる美学』のなかで宥久子さんが《やさしさの固まりのような下の娘》と、綴った聖理さん。がん闘病中は「仕事のパートナー」から再び「母娘」に戻った時間だったのかもしれない。