「父はゼロ戦の設計者として有名ですが、ゼロ戦はテスト飛行中に2人のパイロットが亡くなり、最後は特攻機として、多くの若者の命とともに散りました。そのことを父は亡くなるまで悔いていました。今回の映画にゼロ戦がほとんど登場しないのは、宮崎駿監督が父の心を深くくんでくれたからでは、と感じました」
こう語るのは、スタジオジブリ最新アニメ映画『風立ちぬ』で主人公のモデルとなった、堀越二郎の長男・雅郎さん(76)。
舞台は1930年代。飛行機にあこがれる少年、堀越二郎は上京し、旧制一高から東京帝大の航空学科へ進学する。関東大震災に遭い、そこでヒロインの菜穂子と運命の出会いを経験。航空機製造会社に就職後は、初めて設計した七試艦上戦闘機を完成させる……。当時の世相や震災の惨状などを背景に、堀辰雄の恋愛小説『風立ちぬ』を織り交ぜ、二郎の成長していく姿を描くフィクションで、これまでのファンタジックな宮崎アニメとは一線を画した作品といえる。
では、実際の堀越二郎とは、どんな人物だったのか? 1903(明治36)年、二郎は群馬県藤岡市の養蚕農家の二男として生まれる。この年、ライト兄弟が世界初の有人飛行に成功した。藤岡中学時代、勉強熱心だった二郎は授業の内容だけでは一高に入るのは難しいと感じ、学校の先生に直談判。授業を免除され、自分で作ったカリキュラムをもとに、自宅にこもって学習していたほどだったという。
その努力の甲斐あって、一高、東大を首席で卒業。念願の航空機製造会社に入社。その後、1年半、最新の航空技術習得のために欧米に渡る。そして1932(昭和7)年、海軍が航空機製造会社各社に発注した『七試艦上戦闘機』の設計主任という任務が、二郎に回ってきた。妻の須磨子さんと見合いしたのもこの年だった。1933(昭和8)年に長女、翌年に二女、そして1937(昭和12)年に長男・雅郎さんが誕生する。が、その年から新たな『十二試艦上戦闘機』の設計に着手することに。早朝に家を出て、帰宅は深夜という生活だった。
「日曜も出勤が多く、父と過ごした時間はほとんどなかったですね。だた一度、3歳のころ、父が仕事で飛行場に呼び出されたとき『飛行機、見るか』と、連れていってくれたんです」(雅郎さん)
二郎が身を削る思いで設計した『十二試』は、海軍の零式艦上戦闘機として正式採用され、『ゼロ戦』と呼ばれた。ゼロ戦は、第二次世界大戦で他国のパイロットから『ゼロに会ったら逃げろ』といわれるほどの高性能飛行機として、その名をはせた。
1945(昭和20)年8月15日、日本は終戦を迎える。敗戦後に進駐したGHQ(連合国最高司官総司令部)は、日本人による飛行機生産を禁じたため、二郎は子会社の鍋などを作る製作所に出向となった。いわば、“閑職”に追いやられた形だった。それから10年後、ようやく国内の飛行機生産禁止が全面解除されることに。戦後初の旅客機YS-11の生産が決まると、二郎も設計に参加した。
「設計者グループの重鎮ではありましたが、主役はすでに若い技術者の時代。張り切っていろいろ口出ししては煙たがられる存在だったと思いますよ(笑)」(雅郎さん)
定年で三菱重工を退職後、二郎は、東大宇宙航空研究所などで教壇に立ち、後進の育成に尽力。1982(昭和57)年1月、78歳で亡くなった。飛行機に人生をかけた男は今、空の上で映画の完成を喜んでいるに違いない。