「母を発見したのも僕でした。その前日も母と一緒に食事をして元気だったので、あまりにも突然のことで……」
そう絶句したのは、中村獅童(41)。12月17日、母親の小川陽子さん(享年73)が都内にある自宅の浴室で亡くなった。死因は心不全だった。母と二人三脚で歩んできた獅童。19日に営まれた通夜の後に会見に応じた彼がまず口にしたのは、母親への感謝の言葉だった。
獅童の父親である先代の中村獅童に嫁いだ陽子さんが歩んできたのは茨の道だった。
「獅童さんのお父さんは、舞台上でかぶっていたカツラを投げつけて梨園の世界から出て行った反逆児。望んで梨園の嫁になった陽子さんは、これが悔しくて仕方なかった。獅童さんが生まれると、彼が自発的に歌舞伎の道を志してくれるよう、物心つく前から劇場を引っ張り回しました」(歌舞伎関係者)
獅童が「歌舞伎の稽古を習う」と言い出したのは、7歳のとき。陽子さんの奮闘の日々はそこから始まった。ほかの梨園の御曹司は学校まで迎えにくるハイヤーで稽古場に向かうところ、獅童は1人で電車を利用していた。
「彼は8歳で初舞台を踏みましたが、楽屋の支度も陽子さんの仕事でした。重い鏡台や絨毯を持って、歌舞伎座の階段を上がって行く母親の姿を、獅童さんはいまもはっきり覚えているそうです」(前出・歌舞伎関係者)
20代のころはまともな役につくことができず、周囲から「お前に主役は回ってこないよ」とまで言われても、彼が投げ出さなかったのは、やはり陽子さんの存在が大きかった。獅童はアルバイトをしながら、矢沢永吉の『成りあがり』を読み、夢を実現させてみせると耐えてきたという。’02年、オーディションを経て映画『ピンポン』に出演すると、続いて三谷幸喜脚本のドラマ『HR』で注目された。
‘13年、獅童は大河ドラマ『八重の桜』に出演。さらに11月にはあこがれだった座頭公演を明治座で務めあげた。
梨園に後ろ盾のないところから出発し、ついにたどり着いた座頭。このとき、獅童本人にもまして大喜びしたのは陽子さんだったという。
獅童は通夜の会見で、
「最近は親バカで、大体何やっても褒めてくれるんですけど、明治座の『瞼の母』では『帰りの電車の中で涙が出るくらいよかった』と言ってくれたんですね。その言葉は忘れられないです」
と振り返った。
愛息のますますの活躍を、陽子さんは天国からずっと見守ってくれているーー。