1989年から1990年にかけて、『ザ・ベストテン』(TBSテレビ系)など、各テレビ局の看板音楽番組が相次いで終了した。看板音楽番組の衰退、ひいては「歌謡曲の衰退」は、たとえばこの頃の『紅白』の視聴率にも表れている。
1970年代から1980年代の『紅白』は、その年の歌謡界、そして歌番組の総決算的な役割を果たしていた。毎日のように放送される各局の歌番組から生まれたヒット曲が年の最後に歌われると同時に、トリを頂点とした歌謡界の厳然たる秩序が一目でわかるような番組であった。
そこにはマンネリ感もあったが、一方で大いなる安心感もあった。それを味わうために視聴者はチャンネルを合わせたとも言えるだろう。
ところが、1980年代前半にはまだ70%あった視聴率は、1985年頃から目に見えて下がり始める。
1985年には66.0%、1986年には59.4%、1987年には55.2%となり、とうとう1989年には47.0%(第2部)と初めて50%を割った。
それが各局看板音楽番組終了のタイミングとほぼ軌を一にしていたのは偶然ではない。その後『紅白』の視聴率は、回復傾向をはっきりと見せることはなく、50%前後を推移していく。
SMAPは、デビュー年の1991年に早くも『紅白』初出場を果たした。デビューからわずか3か月のことである。
歌ったのはデビュー曲『Can’t Stop!! -LOVING-』。このときの紅組司会は、女優の浅野ゆう子で、中居正広と稲垣吾郎は、デビュー直前に浅野主演の学園ドラマ『学校へ行こう!』(フジテレビ系)に生徒役で出演していた縁があり、SMAPが歌い終わるとその初々しさに、浅野が「いやあ、白組のボクちゃんたち元気ですねえ」と思わず感想を漏らす場面も見受けられた。この年の紅白の視聴率は51.5%(第2部)であった。
SMAPは、この年当時歌謡界最大の賞のひとつだった「日本歌謡大賞」で優秀放送音楽新人賞も受賞し、『紅白』出場も含めてまさに従来の歌謡曲の王道を歩んでいたが、肝心の歌謡曲は衰退に向かっていた。
その意味では、王道はすでに王道ではなくなろうとしていた。それはすなわち、過渡期の混沌のなかに置かれたSMAPの長い模索の日々が始まることを意味していた。
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以上は太田省一氏の新刊『SMAPと平成ニッポン 不安の時代のエンターテインメント』(光文社新書)から引用しました。